7月27日付のややさんの投稿に対して意見を書きます。
ややさんの立場は、学者や学問の世界を特権扱いし、それに対して政治の世界に身を置くものは口出しすべきではない、あるいは少なくとも多大な配慮をせよ、というものであるようです。実に奇妙な意見ですが、それはまたどうしてでしょう? 学問の世界と政治の世界をそんなに截然と分けることができるんですか? 書いている人が何々大学の教授という肩書きをもっていたらそれは、内容がいかなるものであれ「学問」であり、書いている人がそのような肩書きを持っていない一市民だったら、その内容はいかなるものであれ「学問」ではないということなのでしょうか? 『さざ波通信』の編集部の人が、学者の本を取り上げることにさえ、ややさんは異論を持っているようですが、一市民が学者の本を取り上げてそれを少々辛らつに扱ったからといって、それが何だというのでしょう? そんなに学者というのは偉いんですか? 下々のものは、おいそれとそのような高貴なものを批判するべきではないというわけですか? 驚くべき権威主義ですね。
学問上の論争や到達点はそれがたとえどんなに不愉快であっても、その解決は学問の世界に任せ、差しあたりは受容しなければならないのは現代社会では当然です。
なぜ当然なのでしょう? いつ誰が決めたのですか? 自然科学の分野は別にして、社会科学の分野は、われわれの生活や政治や経済と密接に結びついています。にもかかわらず、「学問」として提示されるやいなやたちまちにして一市民は文句を言うことができず、「差しあたり受容しなければならない」というわけですか? ではいったいどういう資格を持った人なら批判していいのですが? 同じく大学教授の肩書きを持った人ですか? 非常勤講師はどうですか? 大学院生はどうですか? 学生はどうですか? 大学を卒業した人間はどうですか? いったいあなたは、どこで線引きをしているんですか? ぜひ、その具体的な線引きを教えてください。
同じことは通信の中にもありますから、やはりこの辺が前衛党体質なんでしょうか。(不破)「異常な事態に対応する場合には、自衛のための軍事力を持つことも許されるというのが、多くの憲法学者のあいだで一致して認められている憲法解釈」というのは少し表現が不正確ではありますが、ともかく、日本国憲法のもとでも国家の自衛権を否定していないことは憲法学界では常識というのは、この場合不破さんの言うとおりです。
あなたは本当に、『さざ波通信』を読んだ上でこう言っているのですか? 憲法9条下でも国家の自衛権は存在するというのはたしかに、憲法学界の多数派の意見です。しかし、そんなことは『さざ波通信』の編集部だって承知していることです。『さざ波通信』第3号の「憲法9条と日本共産党」ではっきりと次のように懇切丁寧に解説されています。
ちなみに、このB説[戦争の包括的放棄説]自体も国家の自衛権をめぐって二つの立場に分かれています。一つ目は「自衛権放棄説」で、国家の自衛権そのものが9条によって放棄されており、憲法は「自衛権」ではなく「平和的生存権」を保障しているのだというより徹底した説です。もう一つは「自衛権非放棄説」で、国家の自衛権は国家主権ないし自然権の一つとして9条下でも認められているが、ただ武力による自衛は認められないとする説です。私は前者が正しい解釈だと思いますし、現在では左派系の憲法学者の多くはこの立場を採用していますが、多数説は後者であり、共産党も一貫して後者です。
問題は、『新日本共産党宣言』における不破発言が、「自衛権は存在するが軍事力による自衛は認められない」という立場を完全に逸脱して、軍事力による自衛を認めたことである。これは、「少し表現が不正確」などという水準ではなく、はっきりと従来の解釈を逸脱しているのです。そしてこのような不破新解釈が憲法学界の常識などではないことは、それこそ常識です。いちおう、一つの証拠を示しておきます。それは、護憲派の憲法学者として名高い水島朝穂氏の以下の1999年10月25日の文章です。
自衛戦力合憲論を説く学者も一部にはいるが、「多数の理解」というわけにはいかない。誰がそんなことを、と続きを読むと、作家・井上ひさし氏と不破共産党委員長の共著『新日本共産党宣言』(光文社)なかで、不破氏がそう述べているという。最近友人がドイツに持参したのを借りて読んでみた。「異常な事態に対応する特別の措置として、緊急の軍事力を持つなどの対応策をとることが必要になる場合も出てきます。憲法は『戦力』の保持は禁止しているが、異常な事態に対応する場合には、自衛のための軍事力を持つことも許されるというのが、多くの憲法学者のあいだで一致して認められている憲法解釈ですから、最も厳格に憲法を守ろうとする政府でも、世界情勢にそういう大変動が起こってくるときには、国民の支持のもとに、この権利を行使するでしょう」(148頁) 。思わずヘーッという声が出た。この党が政権についたと仮定した上での議論だから、当然、現行の安保条約や自衛隊のもとでの議論ではない。ただ、1954年以来の政府解釈でさえ、「自衛のための必要最小限度の実力」という表現をしており、「自衛のための軍事力」とは言っていないことに注意したい。自衛のためであれ、軍事力が憲法9条に違反することについては、「多くの憲法学者のあいだで一致して認められている憲法解釈」である。
以上の議論に対する説得力ある反論をお願いします。
)「この主張によるなら、憲法には、平時用の憲法と戦時用の憲法があることになろう。」というのは「平たく言うとそうなっちゃうんですね」としか言いようがありません。
「平たく」言おうと、「丸く」言おうと、そうはなりません。なぜなら、日本国憲法のどこにも戦時の際の特別措置や例外規定について何も述べられていないからです。ドイツの基本法やイタリアの憲法にはすべてそのような戦時の際の特別措置や例外規定について明文化されています。すべてのブルジョア憲法は平時用と戦時用のダブルスタンダードを持っていますが、日本国憲法はそのようなダブルスタンダードをいっさい持っていないというきわめて特異な憲法なのです。これこそ憲法学界の常識なのですが…。
また、「大西氏は、自分の立場をあたかも客観的なものであるかのように言っているが、実際には、日本帝国主義の上層という特権階層の立場からものごとを見ているのである。そこには、日本の帝国主義的地位に安住した特権的知識人の傲慢さ、けっして自分が社会的弱者にならない自信が、最も露骨な形で示されている。」とかいういい方も悪名高い還元主義・暴露主義・レッテル張りにしか聞こえませんから、注意された方がよいと思います。またこの記述については、氏の個人的な立場の記述として誤りであり(これには触れてはいけませんからこれ以上書きません)、また思想の歴史的位置づけ方としても一面的です。
「大西氏の個人的立場」って何のことですか? まさか、彼は本当は貧しい家庭出身だなんてたわごとを言うんじゃないでしょうね? 出身がどうであれ、大学教授というのは日本の中の特権階層じゃないんですか? そんなことはない証拠をご提示ください。「思想の歴史的位置づけ方としても一面的です」というのもまったく根拠が示されていませんね。それこそ「レッテル張り」じゃないんですか?
長々書きましたが、要は、政党は政治課題に必要な限りで提言したり見解を表明すればよいのであって、真理の判定者であるかのごとく振る舞う必要はなく、そういう行為は全く有害無益であるということです。
「真理の判定者」って何ですか? 政党であれ、個人であれ、自分や社会と深く関わりのある問題や議論に対しては、それが「学問」であろうと、ジャーナリズムであろうと、政党の政策であろうと、大いに口出しする権利があるし、義務さえあります。そして、「口出し」するときに、自分はこう思う、こういう考え方が正しいと思う、という形で自分なりの結論を提示する必要があります。そうしないかぎり、議論はできないからです。そうすることがすべて「真理の判定者」などというレッテル張りを可能にするならば、およそ人は、「学問」と称する議論についてはひたすら沈黙せざるをえません。しかしそんなことは可能でしょうか? それが不可能なのは、あなた自身の投稿からさえ明らかです。あなたは、学問世界に属する問題について大いに発言し、そして「真理」を提示しています。「日本国憲法のもとでも国家の自衛権を否定していないことは憲法学界では常識」というのも、「思想の歴史的位置づけ方としても一面的」というのも、すべて、自分の意見が正しいという前提で書かれています。つまり、あなたは「真理の判定者」として振舞っているのです。それとも、「日本国憲法のもとでも国家の自衛権を否定していないことは憲法学界では常識」という意見は、真理ではないと思って書いたんですか? 嘘だと思ってわざと書いたんですか? 違いますよね。人は自分が正しいと思う意見を、正しいものとして提示するのです。それが実際に正しいかどうかは、その後の議論や、現実の動きや、その他諸々の検証を受けて初めて明らかになるのです。
あなたは自分では「真理の判定者」として振舞っておきながら、他人に対してはそれを禁じる、それこそ、最も傲慢不遜な「真理の絶対的判定者」として振舞うことではないですか?