「科学的社会主義」討論欄で「不破氏の赤旗祭りでの講演について」(2002/11/15 Hegel、40代)を拝見。
私の意見開陳のために必要な論点のみを要約すると、投稿者は、私たちが昔から「ふわてつ」と呼び慣わしてきた人物を「不破氏」と記し、「ふわてつ」が、「赤旗祭りでの講演」の中で、「資本論や資本主義、社会主義」について論じながら、「労働力の商品化」というキーワードに「一言も触れていない」ことについて、それが「彼の資本論研究の限界を端的に示すもの」と論じている。
そこで問題は、まず、ふわてつ」が、とりあえず、一応、「限界」があるか否かは別として、いささかでも「資本論研究」をしたことがあるのかどうか、なのである。
私は、約30年前、故堀江正規さんを講師とする資本論勉強会に参加していた。この勉強会の発起人の有志は、最初、「資本論研究会」という名称を提案していたのだが、堀江さん(「先生」と呼ばれるを嫌っていたので、我々は「さん」と呼んでいた)から軽く、「研究」という用語の安易な使用をたしなめられ、一同反省、即座に「勉強会」となった。
「研究」という用語を使うのなら、それなりの学問的な基準を満たしていなければ、はったりでしかなくなる恐れがある。
堀江さんは、当時の日本の巨大労組の「綱領」などの起草者としても知られていた。この資本論勉強会は、何度かの変遷を経たが、かなりの数の巨大組合の専従書記局員が、入れ替わり立ち替わり参加していた。
「ふわてつ」の職業歴は、鉄鋼労連の専従書記として語られるが、どれほどの実績があるのかは定かではない。当時の巨大組合の書記局員には、戦後一貫した共産党の非公然方針に基づいて、「優秀な」学生党員上がりが送り込まれていた。社会党も同じことをしていた。
ある時、上記の勉強会の参加者の雑談の場で、日本共産党の幹部が、どれほど資本論を理解しているか、ということが話題に上った。「ふわてつ」の名も出た。すると、ふわてつ」の実態を熟知している大先輩が、「ふわてつは、ね、資本論なんてもんじゃないよ」と、軽い笑いを浮かべて、いなした。温厚な人柄なので、これ以上は語らなかった。しかし、「まあ、どうしようもないよ」という感じの口調だった。その大先輩は、合化労連の専従書記局員で、「ふわてつ」よりも、ずっと年上であった。
次は、私自身の直接の体験である。
ある時、『赤旗』誌上に「ふわてつ」の対談だか、論文だか、資本論に関する記事が載った。そこには、資本論の名を挙げながら、その中でマルクスが引いたルイ16世(数字の方は不確か、14だったかもしれない)の言葉として、資本家の思想は、「あとは野となれ山となれ」であると記されていた。これには驚いた。有名な引用句なのである。
この言葉の原文は、正確を期すほどの問題ではないので、記憶で記すが、髭文字を無視して記すと、確か、Apres moi le delugeである。たとえば、手元の安物仏和辞典のdelugeの項には、Apres nous le delugeの用例の記載があり、「あとは野となれ山となれ」の訳が付いている。どちらが先なのか分からないが、ルイ16世は、おそらく、すでに著名な諺の位置にあったこの言葉の中のnous(われわれ)をmoi(わたし)に置き換え、偽悪的に「われ一人」を誇示したのであろうと、私は想像していた。
日本語の諺、または警句と比べれば、「あとは野となれ山となれ」が、一番近い意味となる。しかし、ルイ王朝の最後の時期の思想として記すのならば、「われわれ)をmoi(わたし)に置き換え」た傲慢さが、決定的に重要なのである。「われ一人」の勝ち抜き勝負、「お山の大将われ一人」の意味が重要なのである。
Apres moi le delugeの一般的な日本語訳は、「わが亡きあとに洪水よきたれ」である。しかも、上記の「ふわてつ」語録の出現以前に、この言葉を題名に使った日本語の本が出ていた。それが、各種の書評もあり、とりわけ、日本の労働現場の実態を告発するものとして、労組関係はの間では評判になっていた。著者は、われわれが「しげさん」と呼び慣わしてきた元共同通信記者、今は故人の斉藤さんであった。
だから私は、即座に『赤旗』編集局に電話をして、「これは不味いよ」と教えたのだが、電話に出た記者は、何のことか分からない様子だった。予備知識が皆無なのであろう。ともかく、「訂正せよ」と要望したのだが、その後、『赤旗』を丁寧に「読めど、ひっくり返せど」、いつかな、その気配が見えない。
ところが、かなり過ぎてから、「ふわてつ」名の記事の中で、「ふわてつ」は、「ルイ」云々が「わが亡きあとに洪水よきたれ」云々と、記していたのである。過去の記事での間違いの自認もなければ、もちろん、詫びも訂正もない。
以上の体験から、「ふわてつ」は、「まともに読んでもいない資本論を振りかざすだけの、ご都合主義の嘘付きじゃ」というのが、私の判断なのである。