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「組織論・運動論」討論欄

原仙作氏4/16論文に思うこと

2010/4/24 櫻井智志

 原さんの『三重の原罪を背負った日本共産党の民主集中制(完)─党史検討への補 足2ー』は、日本共産党の問題を長期間にわたって、真っ向から批判的検討を続けた長期におよぶ 論文の集大成であり、力作である。他の論文もそうだが、原さんほど理論的実証的に対象を検討し た理論家は、少ない。そのことに敬意を表しつつ、一点だけ感想を述べたい。それは、小林多喜二 の小説と党活動をどう見るかという点についてである。

 小林多喜二をどう見るか。私は、後追いで批判することは理論的に可能でも、批判 は彼が出くわした同時代に即して批判することが基本的な必須要項と考える。多喜二が『党生活 者』の中で描写していることは、現代の認識からは、あまりに幼稚だったり政治的活動として未熟 だったり思えよう。けれど、あの時代に特高警察を第一線として、国家権力は熾烈な弾圧を展開し た。日本共産党を中心とする反国家権力の動きを徹底的につぶしていった。
 「政治犯」と「思想犯」との違いを原氏は的確に指摘なさっている。だが、この違 いは共産党の側の問題以前に、権力が、政治犯を思想犯という方針で立件して摘発していった弾圧 の中枢的方針であった。原氏が指摘されているように、革命的前衛は未熟で、党活動の水準は低 かったのかも知れない。しかし、その指摘は現場の指摘ではない。後から足りない点を「客観的に」 正確に指摘しているけれども、当時の軍国主義台頭の動きと徹底的な自由主義、共産主義を弾圧し ようとする政府の弾圧のもとで、萎縮し後退に後退を重ねざるを得なかった「革命主体」の未熟さ である。それを今の時点から後智恵として指摘することは、多喜二等の党活動の理想と現実の格闘 のなかで表面に示されたぎりぎりの実態の構造を見忘れてはいまいか。

 同じことは、プロレタリア文学や「社会主義リアリズム」についても言える。蔵原 惟人について、戦後になって1970年代の文章の中で宮本顕治も批判している。ものごとには段階 がある。最初革命国家ソ連から移入されたようなプロレタリア文学や評論の文学活動は、現代では 日本では見向きもされないような実態となっている。「社会主義リアリズム」そのものが、文学の 現場からまともに相手にされていない。しかし、1930年代の社会情勢と文学において、それらは 時代の寵児であった。少なくとも、帝国主義戦争を批判し、労働者階級を解放する理念を帯びてい た。その歴史的効果を過不足なく見据えることは大切なことと思うがどうだろうか。

 立花隆の「日本共産党研究」は、共産党側よりも詳細に実態や問題点を追及してい ると原氏は指摘されている。私は、立花隆が依拠した資料の中で、日本共産党では入手できない資料 があることを指摘したい。それらの資料とは、戦前戦中の特高警察及び国家権力側に集積されていた 資料である。
 立花氏がチームを組んで労作を世に問うたことは評価に値する。けれども、その研 究の詳細が警察資料をふんだんに駆使していることをどう考えたらよいのか。
 少なくとも、立花論文が共産党側の研究よりも劣っているかどうかは、単純には断 定できないと考える。

 「個人的生活」と「階級的生活」の区別について、原氏は、労働者はみな「階級的 生活」を送っていることを述べておられる。「即自的意識」と「対自的意識」とは認識論上の違いで ある。別に共産党員になるかどうかということではなく、労働者が自ら置かれた労働者階級の実態につ いて社会科学的認識をもつことがなければ、そのまま労働者としての階級的意識をもつと言い切れるの だろうか。自らが置かれた職場や企業、日本の労資関係、それらについて客観的に把握することが階級 意識へとつながるのではないのか。労働の現場で働くから皆階級的生活を送っていると言えるのか。原 氏の指摘は、微妙にずれていると考える。

 原氏が、どのような問題意識で長期にわたって論文を提起し続けたかということに は、勇気に敬意を表したい。思うに、原氏は現在の泡沫政党なみの議席しか国会にもたない日本共産党 の現状を深く憂慮し、日本に真の革命的政党と呼べるにふさわしい国民的政党が育つことを願っておら れると感ずる。
 しかし、現在と多喜二の時代とはストレートに結びつかない。戦後民主化当時の澎 湃たる労働運動のもりあがりは、1960年の安保闘争、1970年代前後の革新自治体闘争へと戦後 史に息づいている。それらの成果を継承する上でも、多喜二の時代を現在から減点法で消去していくので はなく、限界は多かったにしても、当時の共産党員がどのように時代に向かったかという姿勢と意識を 消去してしまっては、今後の開拓すべき原野が見えてこないと考える。
 いずれにしても原仙作氏の数々の労作は、私たちにとって学ぶ要素の多い論文が多 く、毀誉褒貶を怖れず、日本の変革と前進のための勇気ある知性の作品であることに変わりはない。今 後も力作を期待してやまない。
 今回対象とした氏の論文について、読者諸氏が自ら検討されることを望む。下記にアドレスを記した ゆえんである。

(原仙作氏論文『三重の原罪を背負った日本共産党の民主集中制(完)─党史検討へ の補足2ー』)