雑録

 この「雑録」は、日本共産党とその周辺をめぐる動きの中で、短くても論評しておくべきものを取り上げて、批判的に検討するコーナーです。

国旗・国歌に関する日本共産党の新見解について

 2月19日、20日に各マスコミがあいついで報道したように、日本共産党は日の丸・君が代についての新見解をまとめ、国旗・国歌の法制化を容認する立場を示した。
 直接のきっかけとなったのは、朝日系の雑誌『論座』3月号が行なった各党・各メディアに対して行った日の丸・君が代アンケートへの回答である。その中で共産党は、おおむね以下のような見解を示した。

  1. 日の丸・君が代は戦前の天皇支配と侵略戦争の象徴となってきたものであり、国民の中に拒絶反応をもつ部分が多く、国民的な合意となっていない。
  2. 日の丸・君が代を国旗・国歌とする『法的根拠』は何もなく、それを一方的に国旗・国歌として扱い、それを国民に押しつけるのは問題である。
  3. したがって、「国歌・国旗の問題を民主的な軌道にのせて解決するためには、国民的な合意のないまま、政府が一方的に上から社会に押しつけるという現状を打開し、法律によってその根拠を定める措置をとることが、最小限必要」である。その際、「ただ国会の多数決にゆだねるということではなく、この問題についての国民的な合意を求めての、十分な国民的な討議が保障されなければな」らない。
  4. 法的根拠を定めれば、国民の意思が変わったときにそれを民主的に改定することができる。
  5. 君が代・日の丸を教育現場などで押しつけるのは反対であり、たとえ法制化されたあとでも、強制するべきではない。

 以上の見解について、『しんぶん赤旗』は後日、さらに詳しい解説をつけてこの新見解について説明している

 それを読むとはっきりしているのだが、上のIからVまでの見解のうち、新しいのはIII以下である。たとえば解説は次のように述べている。
 「回答は今回新たに、国歌・国旗にかんして法制上の措置を取ることを提起していますが、これは世界の常識にかなったものであり、『君が代』・『日の丸』を政府が一方的に国歌・国旗だと決めつけて、上から社会に押しつけている異常な現状を打開するために『最小限必要なこと』です」。

 だが、以上の新見解はきわめて多くの問題をはらんでいる。
 まず第1に、この新見解がいかなる党内論議も経ずに、一方的に、雑誌に対するアンケートへの回答として出されていることである。
 共産党指導部は、つね日頃、たとえ共産党が政権をとっても、国民多数の意思を無視して何らかの政策を押しつけるものではないと繰り返しているが、その当の共産党指導部が、党内に一度もはかることなく、この新見解を一方的に発表し、党員に押しつけているのである。驚くべきダブルスタンダードではないか!
 党員は全員、寝耳に水である。この新見解に賛成するのであれ、反対するのであれ、とにもかくにも、いかなる党内論議も経ずに、このような形で一方的にこれまでの見解が改変され、新見解が発表されることに、厳しい抗議の声を上げるべきではないか?
 昨年の不破政権論といい、今回の日の丸・君が代新見解といい、不破体制になってからも、党内民主主義の蹂躙がいっこうに改まっていないことが、改めてはっきりと示されたといえよう。
 第2に、国歌・国旗の法制化を求めることの是非である。まずもって、何ゆえ、今ごろになって国歌・国旗の法制化を云々しなければならないのか。
 政府自民党が、このような問題を今現在持ち出してきているのだとしたら、それに対する対処を考えなければならないが、そのような動きがとくにないときに、革新政党の側からこのような提起をすることは、かえって日の丸・君が代の法制化に向けた呼び水になりかねない。
 とりわけ、現在、自由主義史観の台頭や、新ガイドライン法案に見られるように、日本の軍事大国化、ナショナリズムの高揚が進められていることを考えれば、今回の回答は、単に軽率で浅薄であるというにとどまらない、重大な問題をはらんでいると言えるだろう。
 第3に、日の丸・君が代を国旗・国歌にすることには反対だが、国歌・国旗を法制化することそのものには賛成だという議論の誤りである。
 現在の政治的力関係からすれば、何らかのマークや歌曲を国旗・国歌として法制化することになれば、日の丸・君が代以外のものが採用される可能性はまず存在しないと言っていいだろう。したがって、一方で、国旗・国歌の法制化を主張しながら、他方で、日の丸・君が代を国旗・国歌にするのは反対だといっても、それは事実上、日の丸・君が代の法制化を進める役割しか果たさないのである。
 第4に、これまで護憲・革新勢力は、日の丸・君が代を国旗・国歌扱いすることに反対するにあたって、それには法的根拠がないということを一つの有力な理由にしてきたが、だからといって、このことから、国旗・国歌を法制化するべきだという議論にはけっしてならない。
 たとえば、自衛隊に反対する有力な根拠として、それが憲法9条に違反するということを護憲・革新勢力が言ってきたからといって、では整合性を持たせるために憲法の改正を国民的議論の対象にすべきだということになるだろうか? 右派や保守派は一貫してそう主張してきたが、われわれは、そのような論理をきっぱりと拒否してきた。問題の核心は形式的な法的整合性ではなく、自衛隊という存在が、擁護すべき憲法の理念と真っ向から矛盾するということにあったからである。
 第5に、国旗・国歌を法律で根拠づけるのは世界の常識だから日本でも、という議論の安直さである。軍隊を憲法で根拠づけるのもまたある意味で世界の常識である。何らかの有事法制やスパイ防止法を持つのも世界の常識である。小沢一郎はその種の「世界の常識」にのっとって、いわゆる「普通の国」路線を提唱しているのである。
 何らかの理念、何らかの価値観に照らし合わせて擁護しうる制度ないし政策だけが、「世界の常識」を根拠にすることを正当化する。
 たとえば、よく共産党が主張する、公共事業費より社会保障の方を予算的に重視するのが「世界の常識」だという場合、公共事業より社会保障を重視することに社会的意義があるからこそ成り立つ議論であって、もしそうでないならば、このような「世界の常識」など何の意味もない。もし「世界の常識」がそれ自体として善ならば、もし軍事費のほうが社会保障より多いのが「世界の常識」だったとしたら、それにしたがわなければならない、ということになるだろう。
 この観点から見た場合、国旗・国歌の法制化というのは擁護しうる価値理念ないし政策だろうか。絶対に否である。一国の国民国家を統合ないし象徴するような形象や歌曲に、どうして積極的な意味を見出せるだろうか。日本の大国化とともに危険なナショナリズムが台頭しつつある現在においてはなおさらである。
 その意味で、日本の護憲・革新勢力による日の丸・君が代反対運動というのは、単に、日の丸・君が代という特定のマークと特定の歌曲に対する反対ではなく、国旗や国歌というものを崇拝したり自明視したりすることへの異議申立て運動でもあったのである。
 日本共産党の法制化論は、戦後民主主義運動のこうした積極的側面を無に帰せしめるものである。
 第6に、今回の新見解は、日の丸・君が代がたとえ法制化されても、その後、国民世論が変われば改定することもできる、とか、法制化されても個々人や教育現場に押しつけることには反対だ、という立場を表明しているが、これもナンセンスな意見である。この一見したところ形式論理的に申し分ない意見には、政治的リアリティが完全に欠落している。
 日の丸・君が代が法制化されることによって、これまで以上にいっそう強力に日の丸・君が代の正当性が国民の中に刷り込まれるだろう。法的根拠があれば、今まで以上にいっそう大手を振って、教育現場でも個々人にも日の丸・君が代が押しつけられるだろう。それに抵抗したり反対することは、今までとは比べものにならないほど困難になるだろう。これが政治的リアリティというものである。
 もっと恐ろしいのは、日の丸・君が代の法制化とともに、たとえば日の丸を焼いたり、毀損したりすることに対する特別の罰則規定が設けられることである。これはけっして杞憂ではない。これまでは、日の丸を焼いても、単なる器物破損であったが、法制化とともに、国家に対する反逆として厳しい罰則が設けられるかもしれない。そうなれば、なおのこと日の丸・君が代が神聖化され、ますますそれを改定することが困難になるだろう。
 以上見たように、共産党の今回の新見解は、あらゆる意味で誤りであり、反動的な役割しか果たさないものである。支配体制の側に迎合した今回の新見解をただちに撤回し、党指導部として真摯に自己批判することを、われわれは強く求めるものである。

1999/2/25  (S・T)

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