雑録

 この「雑録」は、日本共産党とその周辺をめぐる動きの中で、短くても論評しておくべきものを取り上げて、批判的に検討するコーナーです。

穀田恵二氏は日本のオケットか?

 わが党の国会議員の中では若手のホープであり、幹部会員で国会対策委員長でもある穀田恵二氏(衆院近畿ブロック選出)が、1月13日付『朝日新聞』の「ニッポンをこう変える――若手政治家の私案」に登場し、多くの奇妙な発言をしている。
 「日の丸はただのマーク」発言をはじめ、いくつもおかしなことを言っているが、ここでは現在の政局にかかわる3つの点だけ紹介し、批判したい。
 まず第1に、わが穀田議員は、「幅広く一致点を探る努力を積み重ねることが、将来、政権に参画したときに経験として生きてくる」と述べている。
 もちろん、これは既存の野党や議員たちとの「幅広い一致点」のことを言っており、これらの野党・議員との「政権参画」のことである。何とも露骨な入閣主義(大臣病)的心情の吐露ではないか
 既存の野党の階級的・政治的性格のことなどみじんも考慮の対象には入っておらず、共産党が「幅広く一致点を探る努力を積み重ね」さえすれば、これらの野党の階級的性格が変質して、共産党といっしょに進歩的政権をつくれるようになるというわけだ。
 もちろん、そんなことはありえない。ありうるのは、不破政権論の場合に見られるように、共産党が一方的に他の野党にすり寄って、その綱領的政策を棚上げして政権をつくることだけである。
 第2に、穀田氏は、民主党の「反共意識」について記者から聞かれて、「参院選後の首相指名で、ウチが第一回から菅直人代表に投票したという事実を重く受け止めてほしいですね」と述べている。信じられないような発言だ。
 民主党の「反共意識」とは何か? それは単なる勘違いや誤解から生じたものか? いや違う。それは、民主党の反社会主義的・反労働者的本質の表現に他ならない。共産党がいかに改良主義的に変質しつつあるとはいえ、なおこの日本では、共産党は、ブルジョア政党にとって、社会主義の妖怪の生き残りであり、労働者の反抗と反帝国主義的運動の体現物である。それへの敵対意識を通して、ブルジョア政党は己れの反社会主義的・反労働者的・親帝国主義的性質を吐露するのである。
 にもかかわらず、わが穀田議員は、参院選後に菅直人に共産党議員がこぞって投票したことで、民主党がその「反共意識」をなくし、その反労働者的体質が改善されるだろうと思っているのである。もしそのようなことが本当に可能なら、これからは選挙で共産党への投票を呼びかけずに、民主党に投票を呼びかけて、それらの政党の反労働者的本質を変える戦術をとったほうが賢明だろう。
 実際、穀田氏は、民主党がその「反共意識」を変えない理由を、選挙であまり票にならないからだということで説明している。

 「うちと共闘しても選挙で票にならない、という意識もあると思います。どうしても公明党と選挙協力したい、という計算に引っ張られる」(同記事)。

 もしそれが、民主党の「反共意識」の変わらない主要な理由なら、それこそ、公明党に負けない組織力を持つ共産党の末端組織を総動員して、民主党議員の当選に奔走すればよい。そうすれば、どうせ首相になれないことがわかっている首相指名選挙での共産党議員の投票などよりも、はるかに菅直人と民主党に圧力を加えることができるだろう。
 第3に、自由党が自民党と連立を組んだことについて、わが穀田議員は次のように述べている。

 「彼らには彼らの理屈がある。菅さんが『金融問題は政局にしない』と発言したことに失望したんでしょうね」。

 これもまた驚くべき発言である。たしかに、ブルジョア新聞はいずれも、自由党が自民との連立に走った理由をまさにこのように説明している。だがこのような説明が表面的であり、およそ政治的でないことは明らかである。自由党の表向きの理屈などはどうでもいいのであって、共産党の議員なら、ブルジョア新聞でも書いているような「理屈」を繰り返すのではなく、自由党の階級的・政治的本質にのっとって説明すべきなのである。
 自由党は、もともと、自民党政治を右から改革するために自民党を飛び出したタカ派議員を中心とする政党である。中選挙区制にのっとった自民党の「ぬるま湯政治」――すなわち、中小零細自営業者や農民に対する保護を維持しながら、あるいは日本国民の受動的平和主義に迎合しながら、少しづつ日本の帝国主義化と新自由主義化をすすめる政治――を打破し、権力集中的な小選挙区制を導入して、中小零細と農民への保護を切り捨て、もっと大胆に日本の軍事的「国際貢献」を断行することが、小沢の戦略であった。
 この戦略は実際には主として次の2つの事情によって中途挫折した。第1に、このような急進改革を進めるうえで決定的な階層的基盤たる都市の中上層の政治的凝集性が脆弱であったこと、第2に、選挙多数派を獲得する伝統的能力を有している自民党が、かなり小沢の政策を受け入れたことである。
 この2つの事情によって、小沢は、当初もくろんでいた2大政党制の一翼を担うという展望が破綻してしまった。だが自民党がかなりの程度、小沢の政策を受け入れる姿勢を見せたことは、保守大連立への衝動をもたらした。他方、自民党も安定多数が必要だった。残る障害は、自民党幹部と小沢との間にある、過去のいきさつに由来する個人的なしこりだけであった。だが、左翼と違って、体制派の場合、個人的な対立が、階級的な共通利益を凌駕することはない。かくして、ここに自自連立が成立したのである。
 小沢が、自自連立に急速に動いた個人的動機など政治的にはどうでもいい問題である。共産党がなすべきは何よりも、この自自連立という事態を通じて、自由党の階級的本質を民衆に向かって説明することである。
 ところが、わが穀田儀員は、将来における自由党との共闘の可能性を閉ざしたくないがために、自由党を批判することを徹底して避け、「彼らの理屈」なるものを持ち出すことで、この事態を説明しようとしているのである。
 わが穀田議員の以上のような発言の根底に流れているのは、普通にあらざる日本共産党を、「普通の」ブルジョア議会政党に変えて、共産党をいわゆる「民主主義のゲーム」の普通の参加者にしたいという志向である。
 もちろん、穀田議員の発言には、なおぎこちなさが残っており、「普通のブルジョア議員」としてのふるまい方に慣れていない面もうかがえる。だが、その志向ははっきりとしている。人民の下からの運動にもとづいて日本社会を変革するのではなく、政党間の妥協と取引を通じ、時には与党に時には野党になって、政治を上から動かし、少しづつ「改良」する道を選びたいのである。
 典型的な団塊世代であり党の中核を担っている穀田恵二氏は、かつてイタリア共産党を完全なブルジョア改良主義政党に変質させるイニシャチブをとったオケットらと同世代であり、おそらく同じ政治的感覚を有している。違うのは、オケットらが、古い世代の抵抗を押しのけて、自ら党の多数派をとるだけの政治的能動性を発揮したのに対し、穀田氏にはそのような能動性のかけらもないことである。
 この違いは、両政党の歴史的伝統の違いに起因している。イタリア共産党が曲がりなりにも、党内討論の自由と意見分派の自由を認め、自らの政治的意見にもとづいてグループを形成し多数を獲得することをめざすという政治的訓練を中核党員が積んでいたのに対し、日本共産党はそのような政治的訓練を積むいかなる機会も党員に与えてこなかった。それだけに、日本共産党の変質は、イタリア共産党のようなラディカルな断絶を通じてではなく、党と指導部の一枚岩という体裁を維持しつつ、行きつ戻りつの漸進的過程をたどるだろう。
 この過程を食いとめ、その流れを逆転させるための行動が、今ほど求められているときはない。

1999/2/6  (S・T)

なぜ軍事費の削減を言わないのか

 2月5日付『朝日新聞』の「どうする99政局――キーバーソンに聞く」に志位和夫書記局長が登場して、当面する政局について意見を述べている。
 その中で、志位氏は、消費税減税の財源として、公共事業の削減のみを挙げて、軍事費の削減について一言も述べていない。共産党の財政再建案によれば、財源として軍事費の削減も入っていたはずだが、昨今、柔軟な共産党を印象づけようとするあまり、「軍事費を削って」というスローガンが明らかに後景に退いている。
 インタビュアーは、この点について次のように「評価」している。

 「福祉や教育予算を増やすのはいいが、財源はどうするのか。今までの共産党なら『軍事費を削れ』だったが、志位さんは『公共事業を半減させればいい』。最近、日本改革論に力を入れているだけに、対案もぐっと現実的になってきた」。

 ブルジョア新聞の記者の立場からすれば、もちろん、軍事費削減のスローガンを下ろすことは積極的なことであり、対案が現実的になった証拠である。だが、日本の底辺民衆とアジアの民衆の立場からすればどうなのか? このような「現実性」が許しがたい「現実性」であるのは明らかではないか。
 すべての党員は、軍事費削減のスローガンを再び前面に掲げるよう、党指導部に圧力をかけるべきである。

1999/2/8  (S・T)

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