この「雑録」は、日本共産党とその周辺をめぐる動きの中で、短くても論評しておくべきものを取り上げて、批判的に検討するコーナーです。
第2に、したがって、今回の立場は、これまでの基本姿勢の転換を意味するものであるのだから、当然ながら、きっちりとした党内討論と党内での正式な決定を必要とするはずである。しかしながら、このような党内討論はまったく行なわれなかったし、当然ながら、正式な決定などどこにも存在していない(少なくとも、一般党員の誰も知らない)。
しかも、このきわめて重大な転換が、テレビ番組での発言として行なわれたことは、深刻な意味を持っている。本来、このような重大な方針転換をする場合には、少なくとも党の正式な機関による正式な声明として行なわれるべきだろう。そして、東ティモールに派遣される多国籍軍に財政支援することに賛成する理由について、これまでの立場を変えた理由も含めて、きっちりと説明されなければならないはずである。そして、もちろんのこと、憲法9条との関係について、万人にわかる説明がなされなければならない。
しかしながら、そのような正式な見解表明はまったく行なわれなかった。テレビ番組で志位書記局長がいきなり党の立場として発言したのである。しかもその発言のいいかげんさ! 志位書記局長が出している理由はたった2つである。国連の決議があること、多国籍軍の目的が道理をもったものであること、これだけである。こんないいかげんな理由で、戦費支出に賛成できるのだとしたら、今後、国連決議と「道理ある目的」(その判断はきわめて難しい)があるかぎり、いかなる戦争行為や軍隊派遣に財政援助することも正当化されてしまうだろう。
第3に、現在、第9条への激しい攻撃がなされ、その改変さえもが支配層の日程のぼっているときに、多国籍軍への戦費支出に賛成することの持つ政治的意味である。
憲法9条はある意味で、国家に対する制約条項として最も厳しいものである。歴史上、これほど無条件的に軍事的なものを禁じた条項は存在しない。それは、自衛戦争と侵略戦争を、正義の戦争と不正義の戦争を区別することなく、あらゆる戦争を放棄し、あらゆる戦力を放棄している。ここまで包括的な禁止条項は他には存在しない。この包括性こそが、ある意味で、戦後民主主義運動において重大な武器となってきたのである。
しかし、これは同時に諸刃のやいばでもあった。というのは、共産党の安全保障政策が何度も変転を重ねてきたことに示されているように、革命政権下においてさえ、自衛戦争や自衛戦力を禁止するものだからである。いかなる例外も認めないこの極端な包括性は、一方では、「自衛戦争」や「正義の戦争」という目くらましにいっさいひっかかることなく、帝国主義国のあらゆる戦争行為に反対する強力な武器となってきたが、他方では、実際に革命政権を自衛する場合にさえ制約となるものであった。
このような矛盾を十分に(あるいは不十分に)自覚しながら、戦後民主主義運動は、憲法9条を守る運動をしてきた。それは総体として、きわめて積極的な役割を果たした。圧倒的多数の日本国民が当然の民主主義的権利として享受している多くの事柄が、この運動の中で勝ち取られ、あるいは維持されてきたからである。
だが、今では、冷戦の崩壊もあって、国際的に軍事力を行使することへの敷居が著しく低くなり、また9条に対する攻撃もかつてなく激しくなっている。こうしたもとで、国際的な軍事力行使に対し安直な賛意を表明することは、ましてやそれへの軍事支出を容認することは、その時の判断の是非を越えたきわめて大きな政治的意味を持つことになる。国連決議があり、道理のある目的のためなら、軍事力を国際的に行使してもよく、あるいは、他国に軍隊を派遣してもよい、という規範を認めてしまうならば、当然、その方向に沿った新しい立法や、あるいはそのような条項を含めた憲法の改正が、提起されてもよいということになってしまうだろう。
実際に、そのような新立法やあるいは憲法改正が自自公や民主党の側から提案されたときに、すでにこうした規範を認めてしまっている共産党は、はたして反対を貫くことができるだろうか? きわめて疑問である。
第4に、多国籍軍への財政支出に賛成することは、憲法9条との関連で重大な問題があるというだけにとどまらず、階級的・政治的基準に照らしても重大な問題をはらんでいる。
トピックスですでに論じたように、残留派民兵の虐殺に直面している東ティモール人民が、やむにやまれぬ手段として、国連決議にもとづく多国籍軍の派遣を求めたことを非難する資格は誰にもない。
根本的に問題とされるべきは、1975年のインドネシアによる東ティモール占領を承認し、それ以来25年間に20万人もの東ティモール人民がインドネシア国軍や治安警察に殺されるのを黙認してきた西側帝国主義諸国である。この中にはアメリカや日本はいうまでもなく、今回の多国籍軍派遣の主力部隊となっているオーストラリアも含まれている。オーストラリアはインドネシアが東ティモールを併合したとき、真っ先にそれを承認した国の一つである。これらの国々は、インドネシアが反共親米政権であったために、国際法を完全蹂躙する侵略的占領行為を承認し、このインドネシア政権に多額の財政援助をして、この侵略と反共独裁体制を支援してきた。さらにアメリカとオーストラリアの場合は軍事顧問さえ送って、国軍将校と虐殺特殊部隊の訓練を指導した。アメリカはインドネシアへの最大の武器輸出国であり、インドネシアの武器の90%はアメリカから来ている。他方、インドネシアが受け取っている海外援助の6割は日本からものである。東ティモールで暴れまくっている残留派民兵は、このような長年にわたる体制の必然的な産物なのである。
度重なる国連の非難決議にもかかわらず、インドネシアはいっこうにその態度を改めないどころか、ますます残虐に反対勢力を虐殺していった。日本やアメリカは、これらの国連決議に繰り返し棄権や反対の態度をとることで、最も露骨な形で東ティモールの占領を擁護してきた。とくに日本は、国連でのインドネシア非難決議にことごとく反対し、インドネシア国軍による東ティモール人民虐殺を非難した国連人権擁護委員会での決議にさえ、サミット諸国としては唯一棄権票を投じた。これらの国々に、東ティモール人民の人権を語る資格などない。
この点からして、今回のオーストラリア軍派遣が、人道上の理由によるものでないのは明らかであろう。オーストラリア政府の目的は、これまで20数年間見殺しにしてきた人々の人権や生命を突如として守ることにあるのではなく、アジア太平洋地域でのヘゲモニーを確立し、この地域での警察官としての役割を果たすためであり、また独立した東ティモールへの政治的影響力を確保することである。とりわけ、オーストラリアがインドネシアと共同開発してきたティモール海の石油・天然ガス資源の権利が、独立後、東ティモールに移譲されることをにらんでのことである。
こうした帝国主義的意図は、オーストラリアのハワード首相自身が、アメリカの副官としてアジア太平洋地域で警察官としての役割を果たすことを公言したことにハッキリと示されている(その後、トピックスで紹介したように、厳しい批判にさらされて、ハワード首相は発言を撤回する醜態を演じている)。
このような意図と目的のもとに派遣された多国籍軍への財政支出に賛成することは、オーストラリア帝国主義の軍事行動に対して政治的信任を与えることを意味する。これは階級政党、社会主義政党にとって自殺行為である。
もちろん、東ティモールでの虐殺をやめさせることは、それ自体としては肯定的に評価されるべきことである。しかしながら、ある政治的行為は、それ単独で存在するわけではない。それは、それを取り巻くさまざまな政治的文脈と、その行為を含む前後の時間的文脈のなかに位置している。その総体を正しく考察し、その中でその行為が持つ意味を正確に見定めなければならない。とりわけ、それが、通常よりもはるかに大きな結果(時には当事者でさえ思いもよらない結果)を生み出す軍事行動の場合は、なおさらである。
その点からするなら、志位書記局長が言ったような、国連決議があることと(湾岸戦争にも国連決議はあった)、「道理ある目的」というだけで、帝国主義国が行なう軍事的行動を支持することなどできないのである。それはあまりにも安直であり、したがってあまりにも危険である。
以上の観点から、われわれは、多国籍軍への戦費支出に賛成した志位書記局長・不破委員長の立場に反対し、その撤回を求めるものである。