ところで不破氏は、この講演の中で、社会主義のあるべき姿について論じつつ、生産手段の社会化の問題についてかなり突っ込んだ議論を行なっている。そして、「生産手段の社会化」とは単なる国有化のことではないとして、次のよう述べている。
「どんな形をとろうと、それが社会主義の形態であるかどうかを見分ける最大の基準は、『結合された生産者たち』が主役・主人公になっているかどうかに、おかれるべきでしょう。これが、『生産手段の社会化』だ、『社会主義』だといって、官僚がすべてをにぎってしまい、肝心の生産者たちが抑圧された存在となっているような体制を、社会主義と呼ぶわけにはゆきません」。
ここで触れられている「生産手段の社会化」は「生産手段の社会的所有化」でなければならないし、「結合された生産者たち」というのは、本来、「連合した生産者たち」と表記すべきであることは言うまでもないが(田畑稔『マルクスとアソシエーション』新泉社などを参照せよ)、そうした表記の点を除けば、基本的に首肯できる中身である。
しかし、問題は、中国の現在の経済体制において「結合された(連合した)生産者たち」が本当に「主役・主人公になっている」のかどうかにある。だが不破氏はこの点について何も述べていない。中国の華々しい経済発展、ハイテク企業の成長、外国資本が洪水のように中国に押し寄せていること、これらについては多くの言葉が費やされているが、肝心かなめの「生産者が主人公になっている」かどうかについては沈黙が守られている。
しかし、中国の現実がそのような状態とはほど遠いことは、周知の事実である。たとえば、1999年末に、労働組合の全国組織である中華全国総工会の『工人日報』が、 中国共産党中央委員会政治局常務委員をつとめる尉健行氏の講演を報道する際に、「労働組合は党と同じことをするなら、存在意義がない」との内容を掲載したところ、当日付けの『工人日報』が廃棄処分にされ、編集長が解任された。この程度の独立性さえ労働組合には認められていないのである。このような体制のもとで、「生産者が主人公」などということがありえないことは言うまでもない。
またすでに言及した労働者の状態、貧富の格差の増大などもまた、「生産者が主人公」になどまったくなっていない現実を容赦なく物語っている。