4中総報告の批判的検討――討論の材料のために

結語について若干

 以上で報告の検討をいちおう終えるが、最後に、4中総の2日目に行なわれた不破委員長の結語についていくつか述べておきたい。
 まず、「オール与党」政治に対する認識の混乱である。結語では「以前の時期の『オール与党』政治」という言い方がされており、「オール与党」政治があたかも過去の遺物であるかのように扱われている。しかし実際には、今でも多くの悪法が共産党を除く各党の賛成か、あるいは共産と社民を除く各党の賛成によって可決されている。社民党が議席を激減させ、新社会党が議席を喪失した結果として、むしろ「オール与党」的傾向は強まりこそすれ、弱まっていない。
 さらに、不破委員長は、かつての「オール与党」体制の出発点を1980年の「社公合意」に求めつつ、「オール与党」体制への批判が高まるのは10年以上かかったが、今回の「自自公」体制への批判はすでに始まっており、したがって「発展のテンポはこの面でも大変急速」であるとしている。
 しかし、「社公合意」が社会党の右転落の出発点であったのは事実だが、それと「オール与党」体制との間にはなお大きな開きがあったのであり、「社公合意」をもって「オール与党政治」の出発点とするのは、あまりにも時期尚早なセクト主義的判断である。「社公合意」後、共産党を除く国会運営が始まったとはいえ、社会党は重大な悪法に対してはなお反対の姿勢をとってきたし、90~91年あたりまでは、消費税反対、PKO協力法反対などに取り組んできた。したがって、言葉の本来の意味での「オール与党」政治が始まったのは、「政治改革」騒動が生じ、社会党が細川内閣に入閣し、党としての根本原則を完全に裏切りはじめた92~93年以降のことである。
 また、結語の中で、青年支部の提起がこれまでの方針の転換であることが明確に述べられ、この新方針に対する疑問の声が寄せられたことが紹介されている。こうした声をふまえて、不破委員長は、この方針が一律にあてはめられるべきではないこと、過渡的措置であることなどを強調している。また、青年支部とそれ以外とに分かれることで、党員間の疎隔が生じる危険性にも言及し、そうならないよう注意する必要があるとも言われている。こうした注意は当然のことだが、それが実際に生かされるかどうかは定かではない。支部分割方針のときも、言葉のうえでは機械的適用が戒められていたが、実際にはほとんどの場合、機械的に適用され、多くの混乱を生んだ。
 では、青年支部の提起はつねに危険なのだろうか? おそらくそうではあるまい。そこの支部の年配の党員が、自分の支部の青年党員を単に若い労働力とだけみなし、青年独自の要求や運動に無関心で、青年党員を使いつぶすような傾向にあるとき、緊急避難として青年党員が別個の支部をつくって活動することは有意義だろう。同じことは、女性党員独自の支部などにも適用されてしかるべきだろう。
 最後に不破委員長は、いっせい地方選の総括をめぐって、東京の問題に対する分析が不十分であったという感想を紹介しつつ、この分析は東京都委員会独自の仕事であると答えている。東京に特殊なものについてはそうであろうが、すでに指摘したように、前半戦と後半戦との格差は、大なり小なり全国に共通したものであった。この点でよりつっこんだ分析が中央委員会幹部会としても必要なのは言うまでもない。
 結語を一通り読んで感じたことを最後に述べて、この号外を終わりにしたい。結語の中で不破委員長は、4中総報告に対する批判的ニュアンスをもった意見をもいくつか紹介している。しかし、その意見はいずれも、全国にリアルタイムで衛星放送された各地の地区役員や支部の同志から寄せられたものである。つまり、この4中総に実際に参加して発言した同志たち(党の中枢的幹部だ!)は、「討論」において、ただの一言も批判的な意見を言わなかったということである。それどころか、不破委員長からお褒めの言葉をもらっているように、発言者は全員、4中総報告を「歓迎」し、「正面から受けとめ」、「ただちにとりくみをはじめよう」という意見を述べたようである。いったい、これが討論であろうか?
 われわれのように体系的な批判的立場を表明するまではいかないにしても、「青年支部」の提起やいっせい地方選の総括や「日の丸・君が代」問題などをめぐって、多少なりとも疑問や修正意見を提起する発言者がいてもいいはずである。そのような党員が一人もいないとはどういうことか?
 党幹部はこの忠誠ぶりを党の強さの現われだと思っているのかもしれないが、実際にはそれは党の生命力の衰退の現われなのである。われわれはこのような現実が、党を腐らせ、内部から崩壊させるものだということを改めて厳しく指摘しておきたい。

1999/6/12-13 (S・T)

←前のページ もくじ

このページの先頭へ