(a)共産党の主体的要素
「国民主義」の背景
インタビュアー わかりました。この問題で一つお尋ねしたいんですが、このような「国民主義」が共産党内部で支配的になった理由は何でしょうか?
H・T 現在の形の「国民主義」が以前から共産党内で支配的であったわけではありません。戦後の革新的民主主義運動には、「国民主義」を超えるような論理も多様な形で存在していました。たとえば、日の丸・君が代反対運動を通じて、国旗・国歌を自明視するような見方が相対化されてきたことなどは、その一つの現われです。あるいは、憲法9条擁護運動そのものが、ある意味で「普通のブルジョア国家」の否定なのです。共産党が50年問題に決着をつけ、国籍条項を規約に入れ、大衆政党として確立された以降からすでに国民主義の要素は党内に存在しましたが、現在のように支配的になったのは、70~80年代以降だと思います。
この問題を考える上で非常に参考になるのは、自民党の「保守的国民主義」との対比です。自民党の路線もある意味で「国民主義」的であり、欧米の保守政党に比べれば、はるかに、その階級的輪郭があいまいでした。ここに、90年代初頭における新自由主義者や大企業の、自民党への不満の源泉があったのです。しかし、自民党の「国民主義」は、戦後民主主義運動への対抗と抑制という目的意識の中で形成され、アメリカ帝国主義と大企業の根本利益の擁護という枠組みの中で確立した「保守的国民主義」です。それに対して、共産党の「国民主義」は、戦後民主主義運動に何よりも依拠し、安保・自衛隊反対という、アメリカ帝国主義と大企業の利益に真っ向から反する目標を持った「革新的国民主義」です。
自民党が、欧米の保守政党ほどその階級的輪郭を鮮明にしてこなかったのは、大きく言って三つの理由があります。
一つは、社共を中心とする戦後民主主義運動の強力な力です。社共の左に位置する諸党派や諸個人に関しても、実際には、その歴史的使命は戦後民主主義運動の左からの補強ということにありました。こんなことを言えば、これらの党派や個人は怒るかもしれませんが、そうです。旧左翼も新左翼も、運動の最大の争点にしてきたのは常に、安保反対であり、軍拡反対であり、自衛隊反対、日の丸・君が代反対であり、大企業による横暴反対、公害反対、警察による横暴反対、市民的自由擁護、といった戦後民主主義的諸要求でした。社会主義を直接的な争点にして大規模な大衆的運動を実現した党派は存在しませんでした。そして、それはある意味で当然のことだったのです。なぜなら、社会主義とは、資本主義の抽象的な否定によってではなく、資本主義の枠を突き破らざるをえないような多様で高度な民主主義的諸要求の中から日程にのぼってくるものだからです。
それはさておき、この戦後民主主義運動というのは、直接、社会主義を目標にしているわけではないにもかかわらず、日米の支配層にとっては許容不可能な質を有していました。その大きな理由は、この運動の核心に憲法9条があったことです。自衛隊も安保も否定するこの9条護憲の運動は、とうてい支配層にとって許容不可能でした。ここから、欧米のように、適当に労働者政党やリベラル政党との政権交代をしながら帝国主義的・資本主義的統治を実現するという「普通の」パターンを確立することができませんでした。
インタビュアー そういえば、戦後、片山内閣のような例外を除いて、93年政変まで政権交代がなく、事実上、保守一党による長期政権がずっと続いてきたことについて、リベラル派や市民派の知識人は、日本が後進的であるからだ、あるいは市民社会が未成熟だからだ、ということで説明してきましたね。
H・T そうです。「政権交代のない民主主義」を「政権交代のある民主主義へ」というのが、リベラル派知識人のスローガンでした。しかし、これはまったく誤った認識です。そうではなく、むしろ事実はその反対であって、戦後民主主義運動の先進的な質こそが、支配層をして、何が何でも政権交代を許さない体制作りを強要してきたのです。もし社共が政権をとって、安保を廃棄したり自衛隊を解散させたりしたら、支配層にとってたいへんなことになります。もちろん、社共の幹部は決定的瞬間に日和る可能性は大いにありますが、そうした革新政権の樹立によって解き放たれる大規模な変革のうねりは、支配層にとって危険きわまりないものです。
そこで自民党は、一党政権を維持するためになりふりかまわぬ努力をしてきました。その一つが、戦後民主主義運動に対抗しながら、それにある程度順応したことです。党是である改憲を数十年間も棚上げしたり、軍事費のGNP1%枠を約束したり、非核三原則を宣言したり、自衛隊の海外派遣を90年代まで本格的に着手しようとしなかったり、等々です。これは、戦後民主主義運動のおかげで国民諸階層に広く浸透した平和主義に順応した結果なのです。
もう一つは、都市の自営業者や農民に対する保護主義的な利益政治をどしどしやったことです。社共に対抗してヘゲモニーを行使するために、支配層は、彼らに自由になる手段(財政支出と公的規制権)をフルに活用して、これらの層の取り込みに全力を挙げました。現在問題になっている無駄な公共事業は、一方ではゼネコン奉仕の意味を持っていますが、他方では、地方住民、農村住民への所得再分配でもあったのです。
しかし、自民党は、都市の自営業者や農村を支持基盤にしたことで、なおさら、これらの階層に普遍的な平和主義的意識を考慮せざるをえなくなりましたし、また、現在の多国籍企業体制が要求する自由市場要求にもすばやく対応できなくなりました。この問題はすでに、多くの党員研究者によって解明されているので、先に進みましょう。
自民党が「国民主義」を受け入れざるをえなくなったもう一つの大きな理由は、都市の中核労働者の間で60~70年代に独特の企業主義的統合が成立したことです。これは、企業内部では激しい競争と超長時間・過密労働にさらされるが、とりあえず大企業に属しているかぎり生活の不安はないし、豊かな生活は保証されるという規範を中核労働者の間で確立させました。とくに日本の場合は、ホワイトカラーのみならず、ブルーカラーにも、このような企業主義的規範を普遍化させました。これは、戦後民主主義運動の成果である職工差別の撤廃や年功賃金や終身雇用といった「労働者の既得権」の逆説的な現われでもあるわけです。
この大企業労働者層においては、その激しい競争・長時間労働と、生活の安定という二つの要素がともに作用して、構造的な政治離れが起こり、彼らは典型的な無党派層となりました。欧米では、ブルーカラー層や下層ホワイトカラーは労働者政党に組織されて保守政党への政治的対抗勢力となり、上層ホワイトカラー層は保守政党に組織され、労働者政党への政治的対抗勢力となる、という全般的な傾向がありますが(あくまでも全般的傾向ですが)、日本の場合は、ホワイトカラーもブルーカラーもともに政治離れを起こし、保守党にとっても労働者政党にとっても、安心して依拠できる基盤ではなくなったのです。
そのため、自民党は選挙での多数派獲得のために、多様な諸階層に依拠することを余儀なくされ、これが自民党の「国民主義的」傾向の重要な根拠となりました。
自民党が「国民主義」を受け入れた最後の第三の理由は、日本の選挙制度が長年にわたって中選挙区制であったことです。この制度は、小選挙区制に比べればはるかに比例代表的で民主主義的ですが、全国共通完全比例代表制に比べれば、はるかに不平等です。この制度のこうした中間的性格は、自民党の「国民主義」を助長しました。というのは、小選挙区制の場合ですと、比較第一党だけが当選できる仕組みですから、多様な国民諸階層の利益をいちいち考慮する必要はありません。逆に、完全比例代表制ですと、どんなに多様な国民の利益を考慮するポーズを取ったとしても、とうてい単独で過半数というのは不可能です。しかし、中選挙区制は、努力しだいでは、単独過半数を可能にする絶妙な選挙制度だったのです。この「努力」の中にまさに、国民諸階層の多様な利益をそれなりに配慮したり、国民諸階層に普遍的に行き渡っている平和主義に配慮したりするということが入ってくるわけです。
小沢一郎が中選挙区制を目の敵にしたのは、まさに中選挙区制のこのような「輪郭曖昧化」作用のゆえです。
以上、自民党の「保守的国民主義」を生み出してきた諸要素は、共産党の側の「革新的国民主義」を生み出してきた要因でもあります。
まず階層を越えた広がりを持っている平和主義的規範は、その平和主義に依拠している共産党に、階層性への軽視をもたらしました。たとえば、日本の今の現状において、アメリカやイギリスのように、他国に爆弾を落としたら一気に政府への支持率が高まるほど国民意識が帝国主義化していたなら、平和主義の立場はいかなる意味でも国民的広がりを持ちえなかったでしょう。それはあくまでも、圧倒的少数派の対抗理念としてしか存在しえなかったでしょう。
また、中核労働者層における企業主義的統合の成立は、自民党に他の階層への依拠を余儀なくさせただけでなく、労働者政党にも他の階層への依拠を余儀なくさせました。共産党が誇る民商、民医連、土建組合などの諸組織は、中核部分の企業主義的統合からはじかれた周辺部分を組織することに成功したことの証明です。自民党の側の、商工会議所、医師会、土建事業は、民商、民医連、土建組合への対抗物でもあるのです。