インタビュアー 前回のインタビューから一ヶ月半以上経ちましたが、その間に、日の丸・君が代問題での大きな情勢の変化などがあり、いよいよ、昨年の8月に出された不破政権論の持つ深刻な意味が明らかになってきたという感じがします。あの時、不破政権論の意味を過小評価して、間違いだが大した問題ではないと言っていた人々の誤りが明らかになったと思います。そこで、改めて、不破政権論の出てきた背景について聞きたいと思います。
H・T 今回の「日の丸・君が代」問題も、不破政権論以来はっきりとしてきた共産党指導部の右傾化の流れの延長上に位置づけられます。不破政権論も、今回の国旗・国歌に関する新見解も、あるいはまた、『新日本共産党宣言』での解釈改憲発言も、同じ一貫した流れ、体制への順応と迎合の流れの中にあります。これらは偶然出てきたものではなくて、ある意味で必然的なものです。もちろん絶対的必然という意味ではないですが、構造的なものです。
(a)共産党の主体的要素
「国民主義」的アプローチ
インタビュアー 具体的に言いますと、それは何ですか? 不破政権論以来の一連の行動パターンを生み出してきた構造的な原因というのは?
H・T いくつかあります。まず一つ目は、日本共産党の体質ないし資質にかかわる主体的要素です。
不破政権論の際の不破委員長の一連の発言や、今回の「日の丸・君が代」問題での不破発言などを見ていると、ある共通したアプローチの仕方、あるいは共通した発想といったものがうかがえます。それはまず第一に、「国民主義」とでも言うべき方法論ないし発想です。
インタビュアー 「国民主義」というのはナショナリズム、あるいは民族主義というのとは違うんでしょうか?
H・T ナショナリズムや民族主義という既存の言葉で表現できなくもないですが、そういう既存の言葉だけで片づけてしまうと、日本共産党という独自の対象に対する独自の分析がなおざりにされてしまうような気がします。むろん、それは一種のナショナリズムですが、あくまでも独特のナショナリズムです。
私が日本共産党の「国民主義」的発想ということで言いたかった中身には、対外的なものと対内的なものの両側面があります。
まず、対外的にはそれは、小国主義的で平和主義的なナショナリズムです。ナショナリズムというのは、たいてい大国主義や、好戦主義と結びつきやすいし、とくに日本のような経済的に立派な帝国主義国であるような国では、ナショナリズムと大国主義、好戦主義とは不可分です。しかしながら、共産党のナショナリズムの独自性は、そのすぐれて小国主義的で平和主義的な志向にあります。それは、マルクス主義的な国際主義とは無論、異質ですが、同時に旧来の大国主義的ナショナリズムとも異質なものです。
もちろん、小国主義といっても、経済的小国主義ではありません。すでに日本は世界第二位の経済大国であり、日本共産党には、世界第二位の経済力を国民の暮らしに役立てるという発想が厳然と存在しています。したがって、ここで言う小国主義とは、政治、とくに軍事の面での小国主義です。経済大国であるという現実と、政治的・軍事的な小国主義とは完全に矛盾しており、この矛盾の中から、現在のような新ガイドラインや憲法改悪の衝動が支配層の中で生じているわけですが、共産党はこの矛盾を進歩的な方向で解決するのではなく、この矛盾をそのまま維持しておきたいと考えています。このような虫のいい話は長続きしないわけで、ここから必然的に、絶えざる動揺、絶えざる逸脱、絶えざる右傾化の圧力が生じているわけです。
インタビュアー では、対内的な意味での「国民主義」というのは具体的にどういうことでしょう。
H・T 共産党の「国民主義」の対内的側面について言いますと、それは、国民内部の階級分裂ないし階層分化に対する著しい軽視にもとづいた、「均質的国民」像です。すでに前回のインタビューで何度も指摘したように、共産党、とりわけ不破委員長は、あたかも「国民」というのが均質的で一枚岩的な存在であるかのように考えており、同一の「国民の利益」なるものが存在するかのように考えています。
『しんぶん赤旗』の3月14日付日曜版での筆坂インタビューでは、「国益」という言葉さえ平然と使われていて、共産党は真の国益を守ります、などと言われています。共産主義者ないしマルクス主義者が「国益」などというおぞましい言葉を平然と使うというのは、驚きを通り越してあきれますが、この「国益」というのはまさに、一枚岩的に存在すると想定されている「国民の利益」のことなのです。
このような発想があるがゆえに、自民党と国民の利益とはますます矛盾を深めつつあるから、野党共闘は前進する客観的根拠がある、といった議論が出てくるのです。
インタビュアー 「国民主義」というのは「市民主義」とどう違うんでしょう。
H・T それは非常におもしろい問題設定ですね。共産党の「国民主義」と、共産党とは距離を置いている左派の市民運動や知識人などが唱える「市民主義」とは、共通性とともにいくつかの重要な違いがあります。
まず共通性から見ますと、どちらも、国民ないし市民内部の「階層分化」や「階層対立」というものを無視していることです。ころっとした均質な「国民」という存在や、ころっとした均質な「市民」なるものが存在しているという、非科学的であるばかりでなく、運動論的にも完全に誤った想定にどちらももとづいています。
しかしながら、同じ均質で一枚岩的な民衆イメージにもかかわらず、次の点で重大な相違を両者は持っています。つまり、均質的民衆イメージを表現するのに、「市民」という洗練された都会的な言葉を用いるのか、「国民」というより素朴で手垢のついた言葉を用いるのか、という違いです。これは単なる言葉の問題ではなく、そのような言葉を用いることで、市民ないし国民の中のどの階層が共感を持ちやすいかという現実的・政治的な違いをもたらすのです。
明らかに、「市民」という言葉にアイデンティティを持ちうるのは、都市部の住人であり、しかも、比較的暮らしに余裕がある高学歴の階層です。共産党と距離をとった左派市民運動の担い手を見ても、主として、学者、弁護士、医者、ジャーナリスト、文筆家、ホワイトカラー、そして、夫の年収が700~800万以上の専業主婦です。つまり、一枚岩的な「市民」を想定しながら、実質的にその担い手になり、かつその言葉が主要な対象としているのは、中上層市民なのです。
それに対して、「国民」というより広い概念は、そのような限定性を持ちません。むしろ、その呼びかけの言葉が対象としているのは、都市および農村の中下層部分なのです。
こうした違いは、新自由主義に対する態度の相違として、決定的な政治的相違を生み出します。市民主義は、中上層の都市住民に依拠しているがゆえに、新自由主義に対して親和的であるし、あるいは、それに対する抵抗力が弱いという構造的弱点を持っています。それに対し、中下層の国民に依拠している「国民主義」は、新自由主義に対してはきわめて対立的であり、非和解的です。新自由主義政策というのが、現在の支配層の主要な路線になっている今日においては、この相違は極めて重大な相違なのです。まさにそれゆえ、共産党が昨今の右傾化にもかかわらず、なお福祉切り捨て問題に関しては、日本で最も有力な反対勢力として機能しているのです。
市民主義と国民主義にはさらに、国家に対する態度に関してもう一つ重要な相違があります。「市民」というのは、国家にあまり依存しなくても生活しているだけの余裕と能力を持った上層の人々であり、したがって、反国家主義的傾向を色濃く持っています。それに対して、国民主義というのは、言葉の中にすでに「国」が入っているように、国家の問題に関しては比較的、批判意識が弱いのです。公的福祉や公的規制に頼らなければ生活できない人々にとって、国家なんていらない、とか、何でも自由でいいじゃないか、というわけにはいかないのです。そのような弱肉強食になれば、構造的に敗北することがわかっているからです。
したがって、市民主義の「反国家主義」的傾向も、国民主義の「国家への親和性」もともに、強みと弱みの両方を持っているということになります。つまり、市民主義は一方では、国家に対する規範的な反対意識というものがありますから(ただし、最近台頭している「保守的市民主義」――民主党!――はまったく別です)、日の丸・君が代問題などでもむしろ原則的になりえますし、また在日外国人の問題などに敏感になりえますが、他方では、規制緩和や市場化という動きに対しては無抵抗になりがちです。逆に、国民主義は、新自由主義に対する抵抗力は非常に強いですが、国旗・国歌の問題などでは弱点を露呈するし、在日外国人の問題などに無頓着になりうるわけです。