不破政権論 半年目の総括(インタビュー)(下)

3、不破政権論の背景

  (c)指導者としての不破哲三

 インタビュアー 以上で、共産党のこの間の右傾化の背景説明としては終わりでしょうか?

 H・T いえ、まだ残されている問題があります。それは、共産党の指導者の独自の責任という問題です。マルクスがかつてパリ・コミューンをめぐってクーゲルマンに宛てた手紙の中で言っているように、歴史における偶然の役割、とりわけ運動の指導者となった人々の個性が、ある一定の条件のもとでは巨大な役割を果たします。個々の個別的現象というのは、構造的な必然性と個性的な偶然性とのからみあいのもとで、実際にある特定の具体的姿をとるのです。
 とくに共産党のような上意下達の組織構造をもった集団においては、指導者の個性は、他の組織には見られないような大きな役割を果たします。
 こういう視点から見た場合、現在、共産党の指導者となっている不破哲三氏の個性を抜きにして、現在の共産党の混迷を説明することはできません。

 インタビュアー なるほど。では具体的にお願いします。

 H・T 不破氏は、非常にアクの強い宮本氏のもとで、ナンバーツーとして、大衆に好かれる共産党の象徴として存在してきました。博学で、押し出しがソフトで、立て板に水のごとく語り、けっして興奮せず、いつも笑みを絶やさないというスタイルを堅持してきました(スマイリング・コミュニスト!)。彼がこういう役回りに徹することができたのは、共産党の強引な部分、時には独善的で独裁的にさえ見える手法を貫徹する仕事を、最高指導者としての宮本氏が担ってきたからです。しかし宮本氏は、一方では、多くの人が拒否感を持つような強引なことをやりつつ、他方では、世論から厳しく孤立しても信念(しばしば、とんちんかんな信念でしたが)を貫く度胸ないし覚悟も持っていました。何といっても彼は獄中12年の闘士であり、いかなる拷問にも屈しなかった不屈の革命家なのです。
 しかし、戦後入党した不破氏は、強引な権力行使をやる度胸もない代わりに、世論から孤立しても信念を貫く勇気も持ち合わせていません。彼には、絶対に譲れない一線など存在しません。彼が有している唯一の指針は、周り(とくにマスコミ)の反応を見ながらできるだけ抵抗の少ない道を選択するという処方箋だけです。
 しかも重要なことは、長年来にわたる宮本体制のもとで政治的トップに到達した不破氏は、党内での民主主義的議論を経て党の方針を形作るという常識(社会主義政党においては当然の常識)をまったく持ち合わせていません。そして、もちろんのこと、一般党員もそのような常識を持っていません。
 ここから不破氏は、マスコミに表現されるような「世論」には過剰に敏感であるにもかかわらず、党内の世論や党内の意見については恐ろしく無関心である、というねじれた現象が起きます。もちろん、すでに述べたように、党員の多くが持っている全般的な政治的規範にある程度順応させざるをえませんし、今回のような大規模な反発が生じた場合には慌ててそれをなだめようとしますが、普段、方針を決定する際、党内の意見を広く聞く必要があるなどと考えもしないのです。
 宮本時代には、時には乱暴に党内民主主義が蹂躙されることもありましたが、それでもある種の形式主義的な民主主義は一定守られていました。何か新方針が出るときは、常幹声明なり、総会決定なり、という形で、その新方針を形式的に正統化する試みが行なわれました。ところが今はどうでしょう。そのような試みすらほとんど放棄されています。国旗・国歌に関する新見解が、雑誌のアンケートに答えるという実にアバウトな形で出され、それがその後、中央委員会総会なり常幹声明なりで制度的に正統化する努力すら行なわれていません。今や、かつての常幹声明に代わって、不破氏個人のインタビュー、不破氏個人の記者会見が、党全体の意見をただちに代表するものとして扱われています。

 インタビュアー 宮本時代にも、けっこう宮本氏は個人的に不規則発言をしていましたね。「ペレストロイカはレーニン死後最大の誤り」とか、「ソ連崩壊はもろ手を挙げて歓迎」とか、「冷戦は終わっていない」とか。

 H・T ええ、もちろんそうです。しかし、その不規則発言は必ずその後、常幹声明なり、総会決定なり、大会決定なりで、制度的に担保されました。そのような非常識な発言を無理に集団的意思に転化しようとするから、しばしば強引なことが行なわれなければならなかったのですが、少なくとも、宮本氏個人の意見が、党の何らかのレベルでの集団的意思決定なしに、そのまま党全体の意思になることはありませんでした。しかし、今では違います。不破氏は、記者会見やインタビューで好きなことをしゃべり、その内容がこれまでの党の見解と多少違っても、それがそのまま現在の党の意思だとされます。不破政権論のときは、一ヶ月以上たってからようやく、3中総決定として制度的な集団的意思に転化されましたが、日の丸・君が代については、そういう努力すら完全に放棄されています。
 つまり、かつては、形式的民主主義を貫徹するために、しばしば実質的民主主義が蹂躙されたとすれば、今では、党内民主主義は形式的にも実質的にも最初から無視されているのです。
 だからこそ、国民に討論を呼びかけながら、党内ではいっさい討論を組織しようとしないのです。彼らが党内で討論を組織しないのは、意識的に党内民主主義を蹂躙したいからではなく、そんなことをしなければならないという意識自体が存在しないからです。
 党外世論(とくにマスコミ)への過度の迎合と、党内世論に対する完全な無頓着、これが不破氏の基本姿勢です。

 インタビュアー 私は、最高指導者と議会との距離も関係しているではないかと思います。どういうことかと言うと、宮本氏の場合、彼は議会政治というのが苦手で、書記長になってからもなかなか議員になろうとしませんでした。結局、議員に立候補したときも、生臭い衆院は避け、参院全国区から国会議員になりました。何期か参院議員をやったのちにさっさと議員を引退し、その後も最高指導者として君臨しました。つまり、宮本時代には、議会の駆け引きや議会内世論の影響を受けることが比較的少ない人物が党の最高指導者だったということです。それに対して、不破氏は早くから衆院議員になり、その後も一貫して衆院議員です。彼が気にする世論は、マスコミと議会内の世論であり、それはどちらも現在は非常に右寄りになっています。こういう事情も現在の路線に一定関係しているんではないでしょうか?

 H・T それもあるでしょうね。さらに言えば、不破氏が最高指導者になったときのタイミングも非常に重要です。

 インタビュアー と言いますと。

 H・T つまり、89~90年のソ連・東欧の崩壊と選挙での共産党の低迷という、共産党史上最大の危機の時代を、共産党は宮本氏の強引な力技でしのぎました。このとき、大量の離党者と除籍者が出て、党内での批判的党員は激減しました。その後、この危機をかろうじて乗りきった共産党は、社会党の早すぎる崩壊の影響もあって、95年以降、選挙における上潮の時期を迎えます。かつて盛んであった党内の批判的意見も下火になり、実際に批判的意見を言う勇気を持った党員の多くは党外に去っていました。さらに議会内の力関係や社会全体の動向は非常に右寄りになっていました。こういう状況下で不破氏は、宮本氏の後を継いで最高指導者となったのです。
 党内の批判的意見に手を焼くこともなく、しかも選挙では躍進につぐ躍進を経験するという非常に恵まれた状況の中で、不破氏はますますうぬぼれを強め、ますます世論迎合的な政治姿勢を強めていきました。
 もし宮本氏が89~90年の最も党内世論が盛り上がったときに引退していて、不破氏が後を継いでいたなら、もう少し党内世論を配慮するようになっていたでしょう。宮本氏の遅すぎた引退が、結局、現在の不破指導部の暴走を生んでいる一つの原因だと思います。

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