「日の丸・君が代」問題・再論(緊急インタビュー)

「世界の常識」と「近代国家の常識」

 インタビュアー 最初のうち共産党は、国旗・国歌を法律で決めるのが「世界の常識」と言っていましたが、本当に自民党が「日の丸・君が代」の法制化を持ち出すと、今度はとたんに、国旗・国歌を国民に押しつけないのが「世界の常識」だということになりましたが、それについてはどうでしょう。

 H・T どちらも事実に即さない議論です。まず、国旗・国歌を法律で決めるのが「世界の常識」というのは嘘です。共産党自身の調査にさえ、そのことは示されています。今回の都道府県委員長会議の報告にも「サミット諸国の国旗、国歌について」という一覧表が掲載されていますが、それを見ると、アメリカ、イギリス、カナダ、ドイツ、フランス、イタリアの6ヵ国のうち、国旗も国歌もどちらも法制化しているのは、アメリカとフランスだけなのです。たった3分の1です。国旗だけにしぼると、たしかにイギリスだけが法制化していません。しかし、国旗と国歌を法律で決めるのは「世界の常識」というのは、共産党自身の調査でさえ証明されていないのです。
 この点で、3月8日付『毎日』がおもしろい情報を掲載しています。サミット6ヵ国以外にも国歌を法律で決めていない国として、中国、インド、ベルギー、デンマークを挙げています。とくにベルギー、デンマークは「慣行」となっているのです。あたかも、日本だけが国旗・国歌を法律で決めていないかのように言うのは、嘘なのです。
 もちろん、たとえ、本当に日本以外のすべての国が法律で国旗・国歌を決めていたとしても、それを正当化することなどできません。このことは、『さざ波通信』第1号の「雑録」論文が述べているとおりです。
 さて、共産党は、日の丸・君が代の法制化策動が出てきてから、突然、「世界の常識」の中身を入れ替えて、国旗・国歌を教育現場に押しつけないのが「世界の常識」であるということにしました。では、これは事実として正しいでしょうか? 実はこれも間違いなのです。これも共産党自身の調査が示しています。たとえば、アメリカです。先ほど触れた一覧表の「教育現場での扱い」の部分を見ますと、アメリカの欄にはこうあります。

「合衆国法典第36編第10章第174条『掲示の時と機会』の中に『授業の期間、学校に掲揚すべし』とあるが、罰則などの強制力はない」。

 さすがはアメリカ帝国主義です。ちゃんと法律で、国旗を学校で掲揚することを義務づけているのです。しかも驚くことに、卒業式や入学式のときだけという甘っちょろいものではなく、授業の期間中はずっと掲揚していなければならないのです! 赤旗の表には「罰則などの強制力はない」などと言いわけ気味に書いていますが、法的罰則がないのは日本でも同じですから、そんなことは何らアメリカが「よりまし」な理由にはなりません。罰則がないとはいえ法律で決めているのですから、日本よりもはるかに実施率が高いことは容易に予想がつきます。
 この点で、共産党は最近いわゆるバーネット事件のことを誇らしげにたびたび持ち出していますが、これは、「入一」氏の投稿でも的確に指摘されているように、罰則まで設けて個々の個人に国旗への敬礼を強制することは「違憲」だと判決しただけのことで、教育機関に国旗掲揚を「押しつける」ことを「違憲」だとしたものではありません。したがって、このようなトンチンカンな例を持ち出しても、意味はないのです。
 次に、フランスです。同じ表のフランスの欄を見ると次のように書いています。

「国旗は学校を含むあらゆる公的施設で通常1本だけ掲げるのが慣例。祝日には内務省がそのつど知事を通じて3本掲げるよう指導する」。

 これも、さすがはフランス帝国主義と言うべきでしょう。「学校を含むあらゆる公的施設」で国旗を掲揚するよう中央省庁が「指導」しているのです。しかも、教育省ではなく、泣く子も黙る内務省がです。はるかに強権的ですよね。
 さらにイタリアの欄を見ましょう。そこにはこうあります。

「1986年に首相令で学年の初日と最終日に学校の外に掲げることが定められた。罰則規定はない」。

 これまた、さすがはイタリア帝国主義です。文部省による「指導」などという生易しいものではなく、「首相令」で国旗を掲揚することが定められているのです。
 このように、サミット主要6ヵ国のうち、3ヵ国で、何らかの形で教育現場に国旗の掲揚が「押しつけ」られていることがわかりました。2分の1です。おそらく、他の国々を調べても同じような結果が出てくるでしょう。いったい、これのどこが、国旗・国歌を教育現場に押しつけないのが「世界の常識」ということになるというのでしょうか。まったくの大嘘です。この調査結果はむしろ政府自民党を勇気づけるものです。

 インタビュアー 共産党は「近代国家の常識」という言い方もしていますね。そして、自民党が今なお押しつけをやっているのは「前近代的」だと。

 H・T とんでもない勘違いです。だいたい、前近代の中世社会には、王家や有力貴族の家紋はあっても、国旗や国歌などなかったし、国民皆教育制度もなかったのですから、国旗・国歌を教育現場に押しつけるというような事態はそもそもありえません。このような「押しつけ」はまさに近代の現象であり、近代国家に特有のものです。近代国民国家の成立によって初めて、個々の民衆を「国民」として統合する必要性が生じ、そこから国旗や国歌などの国民統合の象徴が必要になったのです。とりわけ、国民を戦争に駆り立てる必要が生じたときに、真剣に国民に愛国心を奮い立たせるようなマークや歌曲が必要になったのです。ほとんどの先進国において、国旗と国歌というのは、まさに戦争、掠奪、人民支配、植民地主義、民族差別の道具として成立したのであって、旗が血に染まっているのは、何も「日の丸」だけではないのです。

「押しつけ」だけが問題か?

 H・T さらに、共産党の新見解で問題なのは、戦後の自民党の「日の丸・君が代」政策に関して、政府による問答無用の「押しつけ」だけを問題にしていることです。

 インタビュアー といいますと。

 H・T つまり、自発的であれば、侵略戦争の象徴であった「日の丸」を教育の場で掲揚していいのか、自発的であれば、天皇賛美の「君が代」を斉唱していいのか、という問題がすっぽり抜け落ちています。
 むしろ、日本では「日の丸・君が代」を文部省が教育現場に執拗に「押しつけ」なければならなかったという事情は、日本におけるナショナリズムの脆弱さ、それへの健全な抵抗感の広範な存在を示しているのです。「押しつけ」なくても、自然発生的に国旗が掲揚され、多くの人がそれに敬意を表し、国歌が斉唱され、多くに人がそれに唱和することのほうが、はるかに醜悪であり、はるかに危険なことなのです。「前近代」的な「押しつけ」だけが問題だとする共産党の態度は、典型的に近代主義的態度です。

平和基本法の論理

 インタビュアー 今回の不破報告で興味深かったのは、党内からの批判に対して反論がなされていることです。不破委員長は次のように言っています。

「もう一つの意見は、私たちの提唱を読んだうえでの批判です。『寝た子を起こすな』式の意見といったらよいでしょうか、いくら国民的討論をするといっても、いまの力関係では、政府の思うように、『日の丸・君が代』の法制化がすぐ決まってしまう、法的根拠がない今でも現場はがんじがらめになっているのに、法制化されたら事態はいっそうひどくなるじゃないか、だから、法制化などという問題をそもそももちだすべきではない――だいたいこういう意見です。
 この意見は、結局は、国民的な解決策などしめさずに、いまの抵抗闘争を現状のままつづけてゆけばいい、という議論になってしまいます。実は、それが政府の付け目で、政府・自民党が、国民的な議論ぬきにじりじりと押し切ってしまおうとしてきたことは、先ほど、詳しく説明しました。それを打開するために、われわれは、問題を国民的討論のレールに移そうと呼びかけているわけですし、国民的討論も、政府に要求するだけのあなたまかせの話ではなく、あとで具体的に提案するように、私たち自身が、私たち自身の努力で国民的討論を全国規模でまきおこしてゆくわけです」。

 これについてはどう考えますか。

 H・T この論理は実はわれわれにとってはおなじみの議論です。これとそっくりの議論を、いわゆる平和基本法論者たちは、自衛隊の問題について言っていました。それに対してわが党は、党員研究者を中心に猛反撃をしました。この論理が、こともあろうに、自分たちの党の委員長から持ち出されてくるようになるとは、驚きです。
 平和基本法論者は、まさにここで不破氏が言うのと同じことを言って、護憲運動を批判しました。自衛隊が憲法9条に違反するという抽象論にもとづいてこのままずるずる抵抗闘争を続けていっても展望はない、だいたい、その間にどんどん自衛隊は肥大化していったじゃないか、これを違憲だと言うだけではだめだ、国民的討論と法律にのっとった解決のレールを敷く必要がある、そのためには、国民的討論をふまえて、自衛隊を縮小改編し、そのうえで平和基本法にもとづいてそれを合憲と認めようじゃないか、これが平和基本法論者の言い分でした。自衛隊が国民的に定着しているという現状への敗北主義的追認が、この論理の背後にはあります。
 不破委員長の言い分もまったく同じです。これまでの抵抗闘争に対する敗北主義的清算主義、そこから来る、国民的討論と法律による解決という幻想、そして結果的に現状の「日の丸・君が代」を追認することになる危険性への著しい過小評価。
 実のところ、不破委員長は、自民党が「日の丸・君が代」の法制化を持ち出すことなんてないと思って、あの法制化論を出したんですから、このような自己正当化の論理は後からとってつけたものなのです。
 しかし、いかに後からとってつけたものとはいえ、この論理を持ち出したという事実の犯罪性はいささかも割り引かれるものではありません。この論理が認められるなら、当然、平和基本法論者の論理も認められるべきです。そして、共産党内部からの本格的な抵抗闘争が起こらないならば、事態がこのような危険な域に達してもなおも大部分の党員が中央に追従しつづけるならば、批判的な意見を持っている党員ですらが自らの政治的臆病さゆえに沈黙を続けるならば、近い将来、この危険性は現実のものとなるでしょう。最近出された『新日本共産党宣言』はすでにその大きな一歩となっています。

 インタビュアー もう一つ、この「力関係」ということに関して、「力関係」を云々して共産党の法制化論を批判するのは、「敗北主義」だという意見が、中央に忠実な党員から出されているようですが、これについてどう考えますか?

 H・T 具体的な情勢のもとでの具体的な「力関係」を考慮に入れることが「敗北主義」なら、あらゆる冒険主義が正当化されることになるでしょう。改憲の議論をタブー視するべきでないという右派の主張も正当性を持つことになるでしょう。
 もちろん、政治の世界においては、絶対的な必然性など存在しないし、われわれはいかなる敗北主義にも陥ることなく、「日の丸・君が代」法制化の策動を粉砕するために全力を尽くします。当然です。しかし、だからといって、今回の共産党指導部の軽率な行動が正当化されるわけではないのです。

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