これまで、われわれは、『さざ波通信』第1号の「雑録」論文や号外1号、さらに「日の丸・君が代問題特別討論欄」におけるS・T(本誌編集部員)の投稿などで、共産党指導部による国旗・国歌の法制化論を系統的に批判してきましたが、3月24日付『しんぶん赤旗』に、3月17日に急きょ開かれた都道府県委員長会議における不破報告が掲載されたこともふまえて、これまで十分論じられてこなかった論点を中心に、改めてこの問題を論じたいと思います。
インタビュアー すでにこれまでいろいろな批判をわれわれはやってきましたが、改めて、この問題についてお尋ねしたいと思います。まず手始めに、今回の新見解の手続き的正当性に関する問題です。
指導部の新見解に賛成するかどうかは別にしても、少なくともまともな党内討論をまったくせずに一方的に雑誌のアンケートへの回答として新見解を出すのは、共産党の言う「みんなで討議して、決まったことはみんなで守る」という民主集中制の最低限の原則にさえ反するのではないか、ということです。このことを指導機関の人々に問いただすと、たいてい返答に詰まります。ところが、今回の都道府県委員長会議での不破報告を読むと、次のように言っているんですね。まず、『論座』のアンケートに回答する前に常任幹部会で討議し、次に、回答を出す以前に、その回答を都道府県委員会に送付した、と。これについてどう思われますか?
H・T 不破委員長がもしこのような説明で、党内民主主義の手続き違反問題をクリアできると考えているとしたら、本当に驚きですね。不破委員長はたしかに「常任幹部会での討議もへて、私たちの回答を用意しました」と言っていますが、常任幹部会による正式の決定があったとは言っていないんです。アンケートに対する回答も、常幹名で出ているわけではない。さらに、「都道府県委員会に送付した」と言っていますが、都道府県委員会で討論するよう呼びかけたわけでもない。要するに、あの回答は、いったい党のどの公式機関による回答なのかさえ皆目わからない代物なのです。他の党のように、従来と同じ見解を回答する場合には、別に特定の機関名で出す必要もないでしょう。広報担当で十分です。しかし、従来の見解と大きく異なる新見解を出すというのに、誰の、あるいは、どの機関の責任による新見解なのかさえわからないのです。それは今だにわかりません。
しかも、国民全体に討論を呼びかけると威勢のいいことを言いながら、党内では、一握りの常幹会議だけで討議しただけなのです。常幹というのは、政府の機関で言えば内閣のようなものでしょう。内閣でだけ討議したものをそのまま全体の意志だと「押しつけ」て恥じないというのは、本当に怒りを覚えます。
それとの関連で、都道府県委員長会議の不破報告の中に次のような一節があって本当にびっくりしたんですが、不破委員長はこう言っています。
「実は、きょうは、これからCSのテレビの収録がありまして、そこで『時間がかかってもかならずみなさんのお宅にお届けするつもりだ』ということを約束するつもりですから、共産党の委員長がカラ約束をした、ということにならないように(笑い)、よろしくおねがいしたいと思います」。
俺(不破)が勝手にブルジョア・マスコミに約束するから、お前ら俺に恥をかかさないようちゃんとやれ、というわけです。逆でしょう。党内での討議と決定をふまえてはじめて、そのような約束を対外的にできるはずなのです。それが、そのような約束をすることになっているからちゃんとやれというのはまさに言語道断です。
インタビュアー 今回の共産党の新見解を支持する党員の中には、国民的討論をする重要なきっかけをつくったからよかったんだ、という意見も見られますが、これについてはどうでしょう。
H・T そのような開き直り方は、不破委員長自身がしていますが、この問題を考えるうえで、まず最初に確認しておきたいのは、『論座』における最初の回答においては、「国民的討論」など何ら重要な位置を占めていなかったという事実です。不破委員長は、都道府県委員長会議の報告で、今回の新見解を出すにあたって、「この状況を打ち破るには、どうしても、この問題を国民的な討論の舞台に移す必要がある――これが、『日の丸・君が代』問題の実際の経緯にてらして、いよいよさしせまった問題になってきた、私たちはこう考えました」と、あたかも、最初から国民的討論を引き起こすのが主眼であったような言い方をしていますが、そんなことは口からのでまかせです。
回答をよく読んでほしいんですが、そこにおいて解決策の主眼として提起されているのは、あくまでも国旗・国歌を法制化するという点です。次のようにです。
「国旗・国歌の問題を民主的な軌道にのせて解決するためには、国民的な合意のないまま、政府が一方的に上から社会に押しつけるという現状を打開し、法律によってその根拠を定める措置をとることが、最小限必要なことです」。
こう強調したうえで、その後に、ただし国会の多数決にゆだねるだけではだめで「国民的な討議が保障されなければなりません」と言われているのです。「国民的な討議」はあくまでも、数を頼んでの強行に対して「釘をさす」という意味合いで出てきているのです。もし本当に国民的討論を起こすことが主眼であったなら、このような書き方ではなく、「国旗・国歌の問題を民主的な軌道にのせて解決するためには、国民的な合意のないまま、政府が一方的に上から社会に押しつけるという現状を打開し、国民的な討論を行なうことが、最小限必要なことです」という書き方になったはずです。このような書き方で終わっていたなら、まだしも、法制化が前提ではないわけですから、自民党が、広島の校長の自殺をきっかけに「日の丸・君が代」の法制化を持ち出すこともできなかったでしょう。
まず、この点が一点目です。第二に、法制化問題が出てきたおかげで国民的討論ができるようになってよかったという論理の問題性です。私はこの議論を聞いたとき、政府が反動化すればするほど人民の反発が起こるからいいんだ、という極左主義者の言い分を思い出しました。主張の内容は右翼日和見だが、正当化の論理は極左日和見なのです。日の丸・君が代をそのまま国旗・国歌として法制化する法案というのは、ウルトラ反動的法案なのですから、それに対する大きな国民的反発が起こるのは当然だし、大規模な議論が巻き起こるのも当然のことです。同じように、自民党が、今国会中に憲法9条を改定して自衛隊を合憲化するということを言い出したら、それ以上に国民的議論が巻き起こるでしょう。だからといって、国民的議論ができてよかったということになるでしょうか? そのような開き直りは共産主義者として、いや、そもそも社会変革を志すものとして、最も恥べきことです。
H・T さらに、以上のような問題点に加えて、「国民的討論」さえやればいいという発想そのものが根本的に間違っていると私は思いますね。
インタビュアー それはどういうことでしょうか?
H・T 不破政権論について詳しく論じたインタビューでも言いましたが、これは共産党の構造的病である「国民主義」の典型的な右翼的現われです。
まず第一に、共産党は、日の丸がなぜよくないのかの説明として、それが戦前、アジアへの侵略戦争の象徴となったからだと言っています。もし本当にそう思っているのなら、この問題を、日本国民内部の討論だけで決着させることはできないはずです。加害者の側の国の内部だけで「国民的討論」をして、それで決まったことは仕方がないというのは、実に被害者側の国民を冒涜する理屈です。本当に加害の責任を感じているのなら、あるいはその責任を追及するつもりなら、加害者側の国民の大多数がたとえ「日の丸・君が代」を容認しても、それを容認してはならないはずなのです。
また、共産党は、日の丸そのものの問題性を言うときには、侵略戦争の話を持ち出すのに、戦後における政府自民党の日の丸・君が代政策の問題点を言うときには、「国民への押しつけ」だけを問題にし、「日の丸・君が代」を国旗・国歌扱いすることが、アジア諸国の民衆や、日本に住む在日外国人、とりわけ戦中、侵略の被害を受けた国の人々にも侵略の象徴を「押しつけ」ることになるのだ、ということについて何も語っていません。指導部の念頭にあるのは、どこまでも「日本国民」だけなのです。
「国民的討論」論の欺瞞性の第二の点は、これも、すでに不破政権論を批判したインタビューでも述べたことですが、あたかも「国民」というものが均質な存在で、話し合えば必ず合意しうるかのように考えていることです。どうやら、日本社会には、階級対立も階層分裂もないようです。不破氏の論理を突き詰めれば、基本的に、あらゆる階級闘争の否定、マルクス主義の完全な否定になります。かつて共産党は、ゴルバチョフの「新思考」を口をきわめて非難し、階級闘争の否定だ、と声高に主張しましたが、現在の共産党指導部の立場を見るなら、ゴルバチョフの「新思考」など可愛いものです。地球的規模の環境問題ではなく、国旗・国歌という、最も政治的に先鋭な分岐を生むような問題でさえ、国民的な討論さえすれば、みんながこれならと思える「国旗・国歌」が生まれてくるというのですから。
不破氏にとっての「国民的討論」というのは、まさに学級委員長が「クラス討論」を提起するようなものなのです。クラスみんなで話し合えば、みんなの納得できる出し物が決まる、といったノリです。
「国民的討論」論の欺瞞性の第三の点は、いわば「国民」なるものをアリバイに用いていることです。国民が討論して決めたのだからしょうがない、というわけです。「日の丸・君が代」を直接容認する勇気はさすがにないので、国民的討論を持ち出し、国民が決めたのだから、ということで、自らの日和見主義をごまかそうとしているのです。本当に「日の丸・君が代」が国旗・国歌にふさわしくないなら、国民的討論をへて決定されてもそれに反対しなければならないはずです。「私たちは、たとえ、どのような形で決められても、侵略戦争の象徴であり天皇賛美の『日の丸・君が代』は国旗・国歌として認めません」と言うべきです。それが、アジア諸国に対する最低限の義務です。