「日の丸・君が代」問題・再論(緊急インタビュー)

「いまの日本にふさわしい国のシンボル」?

 インタビュアー 今回、不破委員長は、都道府県委員長会議の報告で、「われわれも、二十一世紀にむけてほんとうにいまの日本にふさわしい国のシンボルをかちとる、生み出す、そういう意気込みでとりくみたいと思います」と言っていますが、これについてはどう考えたらいいでしょうか?

 H・T こうした発言の問題性を指摘する前に、実は、共産党は最初の『論座』での回答ではそんなことまるで言っていなかったという事実を確認しておく必要があります。
 「新しい国旗と国歌を」などという主張は、『論座』の回答のどこを見ても書いていません。もしこの最初の回答の段階でそのように言っていたとしたら、共産党が「日の丸・君が代」の容認に傾いたという「誤解」を受けずにすんだでしょう。最初の回答は、「国民的討議」を経て法的根拠を定めよと言っているだけで、新しい国旗と国歌を求めるようなことは何も言っていないのです。「誤解」されて当然でしょう。普通に読んだ人が、ここで法的根拠を定めるとされている「国旗と国歌」とは「日の丸と君が代」のことなのだな、と思ってしまうのも無理はないと言うべきです。
 ところが、自民党が「日の丸・君が代」の法制化を持ち出し、党内外から共産党の新見解への批判が殺到したのを受けて、そして、新聞の投書などで新しい国旗と国歌をと主張する意見が多いのを見て、「いまの日本にふさわしい国のシンボルを」などと言いはじめたのです。
 しかし、「いまの日本にふさわしい国のシンボル」とは何でしょうか? 「いまの日本」とはまさに、世界第二位の軍事力をもっている日本、新ガイドラインで本格的な参戦行為をやろうとしている日本、次々と福祉が切り捨てられ、国中がコンクリートだらけになりつつある日本、寝たきり老人があふれている日本、介護に疲れて実の親を殺さなければならない日本、女性の賃金がいまなお男性の半分である日本、世界中に日本企業が進出し、現地で公害を垂れ流し、貴重な資源を掠奪している日本、従軍慰安婦に国家補償をせず、自由主義史観なるものが跳梁跋扈している日本、世界中に児童ポルノを供給し、アジア諸国にまで行って児童買春にふける日本、これが「いまの日本」です。このような「いまの日本」に「ふさわしい国のシンボル」とは、いったい何でしょうか。

戦後民主主義運動における二つの流れ

 H・T われわれはこの問題をより根源的に考える必要があります。私は、この問題に関して、戦後民主主義運動に内包されていた強弱二つの側面に改めて注意を向けたいと思います。
 戦後民主主義運動のうちには、いわば「近代主義的」と言ってもいい流れと、ブルジョア近代主義を乗り越える論理との両方が潜在的に含まれていました。たとえば、日本は欧米に比べて「後進的」ないし「市民社会が未成熟」だから、市民的自由の点で欧米に追いつかなければならない、というのは、まさに典型的な「近代主義」の論理です。この論理は、共産党の主流派だけでなく、左派の市民主義運動や新左翼のかなりの部分も共通して持っていました。しかし、他方では、戦後民主主義運動は、憲法9条という、およそ近代ブルジョア国家と両立しえない条項を擁護する運動を繰り広げる中で、軍隊の保持を拒否し、軍事同盟を拒否し、有事立法やスパイ防止法などを次々と葬ってきました。
 しかし、戦後民主主義運動におけるこの二つの論理は、十分にその違いが認識されてきたわけではありません。それは、政府自民党が、「普通のブルジョア国家」につきものの諸制度や諸法律を導入するさい、常に、復古主義的な色彩や軍国主義の亡霊をちらつかせてきたからです。
 それゆえ、近代ブルジョア国家、とりわけ帝国主義国家においては、それこそ「常識」である有事立法やスパイ防止法などの制定に反対する運動は、軍国主義の復活反対、あるいは、日本型ファシズム反対、という近代主義的スローガンのもとで進められました。この外観のもとで、戦後民主主義運動の二つの側面はお互い違いを意識することなく、交じりあって共存することができたのです。
 同じような現象は「日の丸・君が代」反対運動にも見られました。この反対運動においても、一方では戦前の侵略の象徴、戦前の遅れた日本の象徴たる「日の丸・君が代」に反対することにとどまる「近代主義」的傾向が厳然と存在していましたが、他方では、この反対運動を通じて、そもそも国旗・国歌を崇拝したり自明視したりすることへの批判意識も形成されてきました。しかし、政府自民党が、洗練された形で「普通の国家」にふさわしい新しい国旗と国歌を持ち出すのではなく、あくまでも、復古主義的色彩の強い「日の丸・君が代」にこだわったために、この二つの傾向に内包されている相違が明確に意識されてきませんでした。
 同じようなことは、おそらく、他のすべての分野についても指摘することができるでしょう。
 しかし今や、戦後民主主義運動に内在していたこの二つの傾向は、日本の本格的な帝国主義化とともに、はっきりと分裂しつつあります。平和基本法論者は、自衛隊の問題に関して、近代主義的傾向をはっきりと自立させ、明確に確立させました。復古主義的でなく、縮小再編された近代的自衛力なら、それは合憲でよい、というわけです。
 同じく、93年政変の際には、後房雄のような元共産党の知識人は、「政権交代のある民主主義」を掲げることで、復古主義的でない洗練された小選挙区制ならよい、復古主義的でない洗練された「民主主義のゲーム」ならよい、と言い始めました。
 こうした流れに対して、これまで共産党は明確に反対を貫いてきました。しかし、己れの内にある「国民主義」と「近代主義」を何ら自覚的に克服していなかった共産党は、ついに、国旗・国歌の問題に関して、近代主義的傾向を自立させ、確立させたのです。
 私たちはこうした事態に直面して、戦後民主主義運動に内包されていた、近代主義を越える論理を取り上げ、それを鍛え上げ、はっきりと形にしなければなりません。

軍隊と国旗・国歌のない日本を

 インタビュアー 国旗・国歌の問題に関して言うと、それは具体的にはどのようなものでしょう。

 H・T 私は、国旗・国歌の問題に関して、次のようなスローガンを掲げることを提唱します。それは、「軍隊を持たないことを憲法で決めた日本にふさわしく、国旗・国歌のない日本を!」というスローガンです。
 このスローガンは一見、まったく「非常識」に見えます。しかし、実は、軍隊を持たないとか、交戦権を認めない、といった憲法9条の「非常識」さに比べれば、はるかに穏当なものです。もし、たまたま戦後の憲法のなかに憲法9条がなかったとしたら、「軍隊のない日本を」というスローガンは、奇想天外な「非常識」に見えたことでしょう。
 「常識」というものがいかに人為的なものであるかをこのことは示しています。実際、「常識」なるものを疑い、イマジネーションを働かせるなら、本当に国旗・国歌なんて必要なのか、という議論が起こるはずです。国旗・国歌がどうしても必要だという主張は、実は、予想に反して非常に証明しにくい主張です。
 「愛国心」を無批判に前提する右翼ナショナリストならいざ知らず、国旗・国歌がないと本当に社会的に困る場面があるのかを自問してみるべきです。

 インタビュアー 「さくら、さくら」や「故郷」のような美しい日本の歌を国歌にするといいのでは、という意見についてはどうですか? 不破委員長もそういう意見を肯定的に取り上げているようですが。

 H・T 「さくら、さくら」や「故郷」を美しいと思うかどうかは純粋に主観の問題ですが、たとえそれを認めたとしても、それを国歌にするとたちまち醜い歌になるでしょうね。普遍性を持った歌詞や美しい調べが、たちまちにして、政治や国家と結びつき、あらゆる偽善と汚辱、抑圧と差別を身に負うことになるでしょう。本当にその歌を愛するなら、けっして「国歌」なんぞにはしないことです。
 いずれにせよ、「国旗・国歌のない日本を」というのは、護憲・革新陣営がこれから大いに議論していかなければならない新しい論理です。さまざまな意見が出ることでしょう。少なくともわれわれは、共産党指導部の「国旗・国歌法制化論」に対して、このスローガンを対案として提案したいと思います。
 もちろん、国旗・国歌そのものに反対でない人とはいっしょに運動をやらないというのは誤ったセクト主義であり、個々の運動の場面においては、国旗・国歌そのものに反対でない人も、反対の人も統一してできるよう、「日の丸・君が代の法制化反対」を一致点として進めるべきでしょう。しかし、国旗・国歌そのものに対する批判は、その運動の中でも大いにやるべきでしょう。
 そして、もちろんのことわれわれは「日の丸・君が代」法制化策動を粉砕するために全力を挙げますが、万が一、「日の丸・君が代」が法制化されても、護憲・革新陣営はそれをボイコットする運動を展開する必要があります。そして「押しつけ」に反対するだけでなく、自発的に行なわれる国旗の掲揚も国歌の斉唱も断固拒否するべきです。かつて、オリンピックの表彰台で、星条旗に背を向け、抗議の意志をこめた黒手袋のこぶしを高々と上げた黒人選手の英雄的行為の、十分の一でも見習うべきです。

 インタビュアー かなり長くなりましたので、今回はこのへんで終わらせていただきます。長時間ありがとうございました。

1999年3月24日

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