インタビュアー 小沢の改憲論の他の部分はどうですか?
H・T 他の部分も相当にひどいものです。憲法の持つ民主主義的規定をことごとく骨抜きにすることが目指されています。たとえば、憲法25条の「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」という条文を、逐条からはずして、前文に移すよう提案しています。これは明らかに、この条文を抽象的な理念に祭り上げようという意図からきています。
また、小沢は、天皇を元首とみなすべきだと言っています。小沢によれば、天皇の元首性は、とくだん明文改憲しなくても、現在の憲法のままでそのように解釈するべきだと主張しています。この問題は、あとで鳩山の改憲論を論じるときにいっしょに論じます。
さらに、小沢は、「公共の福祉」によって自由と権利を全般的に制約するよう提案しています。
「この憲法の保障する基本的人権はすべて公共の福祉及び公共の秩序に遵う。公共の福祉及び秩序に関する事項について法律でこれを定める」。
インタビュアー 「公共の福祉」による制約というのは現行憲法にも存在しますね。
H・T ええそうです。いかに「自由」と「権利」といっても、他人の人権を侵害したり、著しく環境を破壊するような行為は許されません。だから「公共の福祉」による制約それ自体は、正しく解釈されるなら、社会的・経済的弱者の人権をむしろ拡大するものです。たとえば、企業にいくら営業の自由があるからといって、公害を垂れ流すことは許されないし、あるいは、零細自営業者の生活を脅かすことは許されないのです。さまざまな社会的・経済的規制――新自由主義者が撤廃をもくろんでいるもの――は、「公共の福祉」の理念から憲法的に正当化されます。
しかし、小沢がもくろんでいるのは、社会的弱者の権利保護ではさらさらなく(むしろ、その点ではいっそうの自由化を求めています)、国家的目的のために、とりわけ有事の際に、国民の自由と権利全般を制約することです。
インタビュアー 具体的に言いますと、どういうことですか?
H・T 先の条文をよく読むなら、3つの問題性が浮き彫りになります。まず第1に、これまでの「公共の福祉」規定が、あくまでも、自由と権利の追求を積極的に認めたうえでの部分的制約規定であったのに対し、この条文では、「制約」それ自体が独立の項目となり、それが権利と自由全般を制約するものとして登場しています。つまり、「部分的・消極的制約」から「包括的・積極的制約」への転換です。
第2に、「公共の福祉」と並んで「公共の秩序」という言葉が挿入され、「公共の福祉」と同じぐらい包括的に権利と自由を制限するものとして位置づけられていることです。「公共の福祉」というのは、人権尊重的なものとして理念化しうるものですが、「公共の秩序」はそれ自体としてはいかなる積極的価値理念をも内包していません。反動的であろうが強権的であろうが、「秩序」は「秩序」です。「秩序」に何らかの積極的意味があるとすれば、それが「公共の福祉」に寄与する場合だけです。ですから、「公共の福祉」という概念のうちには、「公共の福祉」に寄与するかぎりでの「公共の秩序」がすでに含まれているのです。それをあえて、「公共の福祉」と並んで「公共の秩序」を制約要件として持ち出すということは、「公共の福祉」とは無縁な「公共の秩序」が想定されているということ、そしてそのような「秩序のための秩序」が、すべての基本的人権を包括的に制約することができるとみなしていることを意味します。それがいかに危険なことか、今さら説明するまでもないでしょう。
第3に、その「公共の福祉」および「公共の秩序」に関する事項が、別途、法律で定めるとしていることです。ということは、新たにどんどん法律さえ作っていけば、いくらでも基本的人権を制約することができるということです。これはまさに、べらぼうな規定です。
インタビュアー このような条項を持ち出してきた理由は何でしょうか?
H・T それはまず何よりも、有事において基本的人権を包括的に制約するためです。小沢自身が次のようにはっきりとその意図を述べています。
「政府にも責任があるだろう。例えば通信傍受法。これは国防を含めた治安維持に欠かせない。そこの問題を国民には隠して、捜査するのに少しだけ必要などと誤魔化しながら法案を通そうとする。住民台帳をつくるのも、税金のためだけではない。有事の安全保障や緊急時の危機管理に必要だからこそ、背番号制を導入するという形で論議されるべきではないか」(101頁)。
そして、こうした目標と密接に結びついて、全般的な帝国主義的統治体制を構築するという意図があります。日本国憲法の先進性と、それを支えた戦後民主主義運動のせいで、戦後日本は長らく帝国主義的な統治体制を十分に建設することができないでいました。国民世論が右傾化ないし受動化している現在、いよいよ本格的な帝国主義的国家統治体制を確立しようとしています。そのための絶好の手段として、このような包括的権利制約規定が提案されているのです。
小沢はさらに、この帝国主義的統治体制に不可欠なものとして、緊急事態規定を設けようと提案しています。
「内閣は、国又は国民生活に重大な影響を及ぼす恐れのある緊急事態が発生した場合は、緊急事態の宣言をする。緊急事態に関する事項は法律で決める」。
ここで小沢が念頭に置いている「緊急事態」とは、言うまでもなく、戦争をはじめとする有事のことです。この規定と先の包括的権利制約規定とが結合すれば、政府は、「緊急事態」だと一方的に判断すれば、ほとんど無制限に権力を行使することができます。このような体制こそ、まさに帝国主義的国家体制の名にふさわしいものです。
インタビュアー それをファシズムと呼ぶ人々も多いようですが。
H・T 私は、ファシズムという言葉はきわめて限定的に慎重に使うべきだと思っています。何でもかんでもファシズムと呼ぶ癖が、日本の知識人には、左右問わず見られますが、それは不正確であり、また危険です。ファシズムとは、帝国主義的国家体制のある特殊な形態、すなわち、あらゆる反対派や労働者組織を根絶しないでは支配を維持できないような危機的状況における狂暴化した帝国主義の体制であり、ウルトラ・ナショナリスティクな全体主義イデオロギーにもとづいてプチ・ブルジョアジーの大群を政治的に動員し、それを労働者や移民や被差別集団に対抗させるという性質をもったものです。
日本で安直にファシズムについて語られるのは、皮肉なことですが、日本国憲法があまりにも民主主義的であるため、普通の帝国主義国に見られるような国家体制がファシズムに見えてしまうからです。
そして、ファシズムという言葉でしか敵を批判できないということは、ある意味で、自らのリベラリズム的限界を示すものです。悪いのはファシズムであって、帝国主義そのもの、あるいは資本主義そのものではない、という観念をそれは潜在的に含んでいます。われわれは、たとえそれが形式的に「民主主義的」であろうとも帝国主義の体制と闘うべきです。