最後に天野氏は、われわれが、強力な組織と運動の必要性を主張したことを批判して次のように述べている。
「強力な組織の保護とバックアップがある運動の必要を『さざ波通信』は力説しているが、私は、『汚名』そして『査問』の著者も、自分を含めたそういった発想の人々の事大主義的よりかかりが、党中央の官僚主義(査問体質)を支えてきたのではないかということに、やっと気づきだし、その内在的反省をレポートしているのだと思う。そこにこそ、この2つの著作の積極面があるのではないか」。
前回の批判では、川上氏の『査問』について「不気味」の一言で切り捨てていた天野氏が、今回は『査問』と『汚名』の「積極面」を認めているような発言をしている。それも一つの進歩としてわれわれはそれを歓迎する。しかし、『さざ波通信』の立場についての説明は少し不正確である。われわれは実際には以下のように述べている。
「強力な組織なしに運動できる強い人々は社会の中のごく一部であり、多くの普通の人々は、組織に属し、その組織に守られることではじめて運動に立ちあがれるのである。強力な労働組合がなくても、強い個々人が個別に労働運動をすることは可能であろうが、労働者の広範な層が運動に参加することはないだろうし、したがって労働者全体の権利も守れないだろう」。
「多くの弱い諸個人は、組織によってバックアップされ、保護されてはじめて『自立』できる」。
言っていることは非常に明快だと思う。われわれが言っているのは、「強力な組織の保護とバックアップがある運動の必要」ではなく、多くの普通の人々、あるいは多くの弱い諸個人は、自分の権利を擁護してくれる「強力な組織」に守られてはじめて運動に立ちあがれる、という冷厳な事実である。その典型的な例は、引用でも述べられているように労働運動である。
現在、日本において企業社会が成立してしまっている一つの重要な要因は、個々の労働者の権利を守る強力な労働組合が存在しないからである。民間大企業においては、残業を拒否したり、転勤を拒否したりすることさえ、労働組合に守られていないかぎり、普通の弱い個人にはできない仕組みになっている。もちろん、一部の強い個人なら、クビになる覚悟で、あるいは、そうなったときには訴訟する覚悟で、企業に対して自立性を主張し実践することができるかもしれない。しかし、大多数の人々には無理である。
そういう状況があるときに、個々の労働者の権利を守る強力な労働組合を求めることそのものを「事大主義」などと攻撃することは、結果的に大企業を利することを意味する。それは一種のエリート主義であり、まさに、日々困難な中で労働組合運動に従事している現場活動家を愚弄することである。
もちろん、直接、資本の弾圧対象とはならない市民運動の場合には、そのような組織がなくても個々人は運動可能であろう。だが、われわれが発達した資本主義社会で暮らし、ほとんどの市民が同時に賃金取得者でもあるという事実をふまえるならば、資本の牙城でどのようにして労働者の権利を守り、資本に対する労働者の闘いを発展させるのかが決定的に重要な課題にならざるをえない。
同じことは政党組織についても言える。現在、国会の議席は保守政党によってほとんど独占されている。そのため、天野氏らも熱心に反対した一連の悪法が、先の国会で次々と強行採決された。そうした深刻な情勢のもとで、強力な労働者政党を構築することそのものを「事大主義」として非難することは、まさに翼賛国会の状況を放任し、それを支えることを意味する。
問題は、政党であれ労働組合であれ、強力な組織においては官僚主義や組織的惰性や指導部崇拝などが生まれる強い可能性が存在していることである。したがって、強力な組織の建設に従事する人々にはつねに、この可能性を強く自覚し、日々の実践や理論化を通じて、官僚主義や組織的惰性と闘い、その影響を最小限にし、また時機を失せずそれを克服する取り組みが求められる。これは抽象論ではなく、具体的な実践的課題である。そして何よりも、『さざ波通信』はそのような試みの一つなのである。