前回の反論においてわれわれは、事実の再調査ということを重視した。今回の天野氏の反論の多くの部分は、このことの批判に集中している。
「査問の被害者である川上徹の『査問』(筑摩書房)にも油井の『汚名』(毎日新聞社)にも、この査問という人権蹂躙は党中央あげての行為であったということはハッキリと示されている。宮本は後景にしりぞいても、党中央のメンバーは大きく変わっているわけではないし、その伝統的体質(そういう人権侵害をやる権利を自分たちは持っているという思想)はそのままである。だから川上や油井は党をぬけることで、はじめて事実が書けたわけだろう。
事実は明らかにされるべきだろう。しかし、この加害者たちに、その加害行為の事実関係の具体的調査をしてもらおうという発想が、まず私にはわからない。加害者である党中央全体の責任を問い、彼等を責任ある地位からおろすことが可能でなければ、この組織にとっては本当のところなにも始まらないのではないか。加害者自身による自己調査要求(『名誉回復』要求はこれに重なる)などはやはりおかしいと思う」。
しかし、天野氏は前回の批判で、賠償や謝罪を求めるべきであって、名誉回復を求めるのはおかしいと言っていたはずである。すると、天野氏の主張によるならば、加害者に謝罪や賠償を要求することは正しいが、「事実の調査」を要求することは間違いだということになる。奇妙な意見だ。もし天野氏が言うように、本当に「彼等<党幹部>を責任ある地位からおろすことが可能でなければ、この組織にとっては本当のところなにも始まらない」のだとすれば、「謝罪」要求も「賠償」要求も、「彼等を責任ある地位からおろすことが可能」でなければ、無意味ということになるではないか? それとも天野氏は、現在の党指導部は、まともな事実調査はしないが、謝罪と賠償だけは誠実にやるとでも言うのだろうか?
実際には、天野氏のような意見は、具体的な運動のありように関する無知からくる一面的な意見にすぎない。調査要求も謝罪要求も一つの運動として、加害者の側に押しつけるものであって、けっして「してもらおう」という受動的なものではない。もちろん、事実の調査は、党中央がやる前から、個人的にも一定可能である。しかし、重要な資料はやはり当事者たる党中央の資料庫に眠っているのであって、それを明らかにすることは、党中央の関与なしには不可能であるし、また全容の解明のためには、幹部クラスの証言がどうしても必要になる。
薬害エイズ運動は、厚生省に対して、謝罪要求とともに、きちんと事実を調査し資料をすべて公表せよと要求した。この運動に対し、加害者に調査を要求するなどナンセンスだと批判した人が、はたしていただろうか? もちろんいない。そのような主張は、運動にとって百害あって一利なしである。公正な調査をやらせること自体が、一つの重要な闘いであり、ある意味で決定的な闘争課題なのである。
被害者と加害者の関係が単なる個人と個人の関係なら、事実の調査は警察なり検察なり、あるいは第三者がやるのが適当であろう。しかし、加害者が国家自身である場合、あるいは、共産党中央委員会のように、ある組織において国家機関的位置にある機関の場合、調査要求は、それらの公式機関に対して運動を通じて下から押しつけるべきものである。
また、公正な事実調査という要求は、必ずしもあの査問事件を冤罪と考えていない一般党員をも巻き込むことのできるスローガンである。党内の体制というものは、自動的ないし自然発生的に変わるものではない。それはただ、あれこれの事件をめぐる具体的な下からの取り組みを通じて初めて変わるのである。『査問』や『汚名』を読んだ党員の多くは、にわかにそこに書いてあることが信じられなくても、事実関係の再調査は必要であるという意見には同意するだろう。もし本当に党中央の側に何もやましいことがないのなら、再調査をすることに反対する理由は何もない。当事者の多くはまだ生きており、十分、事件の再構成は可能である。多くの党員の同意を確保できる方法を通じてはじめて、党内体制は変わりうるのである。これもまた運動論の常識だと思われるが、いかがだろうか?