この「雑録」は、日本共産党とその周辺をめぐる動きの中で、短くても論評しておくべきものを取り上げて、批判的に検討するコーナーです。
7月25日に「皇太后」の葬式が盛大に行なわれた。この葬式は、憲法や民主主義の観点からしていくつかの看過できない重大な問題を内包している。
まず第1に、この儀式は戦前の絶対主義的天皇制の時代の儀式を完全に踏襲しており、主権在民を核心とする現行憲法の精神を真っ向から踏みにじるものである。
第2に、この儀式は宗教色が非常に濃く、そこに巨額の国費が投じられたことは、憲法がうたう政教分離の原則を侵害するものである。
第3に、一皇族の死にこのような盛大で時代錯誤の葬式を行なうことは、森総理の「天皇中心の神の国」発言に見られるような天皇主義的・権威主義的傾向を助長し、国民主権を空洞化するものである。
第4に、この葬式と軌を一にして、全国の公的機関や教育機関、その他さまざまな場で、黙祷や弔旗の掲揚が押しつけられたが、これは個々人の思想・信条の自由、良心の自由を著しく侵犯するものである。
第5に、645兆円もの巨額の財政赤字のもと、この葬式の費用として25億円もの巨費が投じられたが、これは無駄な公共支出の最たるものである。
第6に、弱者向けの福祉や医療費が大幅に削られているもとで、すでに死んだ一個人の葬式にこれほどの額(この額が福祉に回されていたなら、どれだけ多くの人の生命や健康が守られたことか!)を費やすことは、まさに根本的な不平等、生命と人格の不平等を実践することに他ならない。
以上の観点からするなら、当然、今回の「皇太后」の葬式に対し、憲法と民主主義と福祉を守る立場の政党はみな、断固たる反対の意思表明をしなければならなかったはずである。しかしながら、そのような意思表明はまったく行なわれなかった。わが日本共産党も同罪である。わが党は、憲法擁護を掲げ、人間の平等を信条とし、無駄な公共事業の削減を最大の政策としているにもかかわわず、憲法蹂躙であり無駄な公共支出以外の何ものでもない今回の葬式に対し、党の正式の声明としても、『しんぶん赤旗』の記事としても、まったく批判的な姿勢をとらなかった。
最近、共産党指導部は、憲法上の存在としての天皇制を否定しないという立場をやたらに強調しているが、しかし、その後退した立場からしても、今回の葬式はきっぱりと批判することができたはずである。今回の葬式は、国会開会式に天皇が「お言葉」を発するのと同じく、憲法の範囲を逸脱した内容を含んでいる。とすれば、憲法上の地位としての天皇を容認したとしても、憲法を逸脱した部分については、批判できたはずだし、批判するべきだった。にもかかわらず、共産党と『しんぶん赤旗』は完全な沈黙を守った。
共産党は、森首相が「日本は天皇中心の神の国」だと発言したとき、それを総理失格の暴言だと断固糾弾した。それは当然である。だが、一皇族の死に際して、これほど大げさで時代錯誤的な儀式を行なうことは、まさに「日本は天皇中心の神の国」であるという思想を実地に実践することに他ならない。発言は批判しながら、その発言を体現した行為については沈黙するのは、まったく説明のつかない政治的無原則さではないか。