この「雑録」は、日本共産党とその周辺をめぐる動きの中で、短くても論評しておくべきものを取り上げて、批判的に検討するコーナーです。
わが党は、第6回中央委員会総会において、青年層に重点を置いた党の拡大運動を提起した。私たちがこれまで何度も繰り返し指摘しているように、この青年層における共産党の組織的基盤の極端な弱さが、今日における党の政治的影響力の衰退をもたらしている。
このような青年・学生分野における共産党の低迷と衰退は、一方ではたしかに日本全体の帝国主義化と軌を一にした青年層の保守化、高度消費社会の爛熟による政治離れなどの結果であるが、しかし他方では、共産党自身の主体的誤りの結果でもある。1970年代における新日和見主義事件のでっちあげによる、青年・学生分野での大粛清、党の硬直した官僚主義的体制、選挙運動への埋没と大衆運動の軽視、等々が、先進的学生層やラディカルな志向を持った青年層にとって、共産党という政治組織を魅力のないものにしている。
ラディカルな志向を持った青年・学生たちはこう感じている。たしかに、共産党は、選挙における投票先としてはそれなりに意義がある。しかし、そこに入ることの意義は感じられない。なぜなら、民青も共産党も、選挙運動はやるようだが、大学で闘いの先頭に立っていないではないか、労働組合でも党員たちは先頭に立っていないではないか、どうしてそのような組織に入らなければならないのか、と。
したがって、このような路線や体質の根本的な改革がないかぎり、小手先で青年・学生分野における組織拡大を重視しても、抜本的な前進ははかれないだろう。
このような危惧は、この6中総と同時に発表された、青年向けの「入党のよびかけ」によってもはっきりと裏づけられている。党指導部は、このような文書で本当に先進的・戦闘的青年層の心をつかむことができると思っているのだろうか?
青年層は単なる生活要求だけで闘争に立ちあがるのではない。何よりも正義感、理想主義的理念、不正に対する怒りなどによって立ち上がるのである。だが、この官僚的文書に、そのような正義感や、不正に対する怒りを燃え立たせるような言葉や情熱が存在するだろうか? それは、生涯を人民の闘争にささげることを決意させるための訴えというよりも、教科書的な共産党紹介文書、ないし、選挙用の宣伝ビラのようにも見える。
新しい時代を担う青年層に訴えるにあたって、まずもって必要なのは、世界の赤裸々な現実を鮮やかに示すことである。現在の党を支えているのは、70年代初頭に入党した青年・学生たちである。彼らの最大の関心事はベトナム戦争だった。ベトナム戦争を止めろ! 米軍はインドシナから出て行け! 日本はベトナム戦争への加担をやめろ! 米軍の出撃を許すな! こうしたスローガンこそが何よりも当時の青年たちの心をとらえた。現在においても、多国籍企業の野放図な支配と一部の大国による「世界秩序」の押しつけが、世界のあらゆるところで人民の激しい抵抗と闘いを生み出している。現在、アメリカでもヨーロッパでも、新しい学生運動、青年運動の波が起こり始めている。それは60年代後半~70年代初頭における規模にはまだ遠いが、それでも各大学で、高校で、街頭で、職場で、20代の青年を中心とした運動が盛り上がり始めている。彼らの最大の関心事は、アメリカや多国籍企業を中心とする新自由主義的グローバリズム、第三世界の貧困と構造的暴力、世界的規模で蔓延する環境破壊と性差別、である。こうしたものに自分自身の国が積極的に加担し、それが国内における弱者切り捨ての政治と結びついている現実を、彼ら、彼女らは見据え、それとの闘争を正面に据えている。
ところが、今回の「入党のよびかけ」はどうだろうか? 世界のこのような現実も、それに対する人民の闘争もまったく出てこない。失業や貧困や環境破壊という言葉はただ、資本主義が未来永劫続くわけではないことを示すためにアリバイ的にたった一度言及されているだけである。残りはすべて国内問題に費やされている。あたかも、世界には日本という国しか存在しないかのようである。
だが、その国内問題に対する取り扱いにしても、事情はそれほどましではない。そこではたしかに、自民党政治の行き詰まりや大企業の横暴については語られているが、そうした国内の政治状況のトータルな構図は示されていないし、それに対する民衆の闘争については語られていない。
現在の支配層がもくろんでいるのは、安保体制を強化し、憲法9条を廃棄し、有事立法を制定し、自衛隊の海外派遣をより本格的なものにすること、すなわち、国際帝国主義の能動的一員として、本格的に戦争のできる国内体制を形成することである。そして、それと不可分な関係として、多国籍企業のための経済・社会、弱肉強食の市場原理主義的なシステム、すなわち新自由主義と総称される諸政策――福祉切り捨て、消費税増税、金持ち減税、規制緩和、公共部門の縮小など――が推進されている。世界でも日本でも、強者と弱者に分けられ、強者の思うがままの政治・経済システムが大規模に進められている。こうした状況をトータルに鋭く描き出してこそ、青年の琴線に触れることができる。君たちはどう生きるのか、強者の側について弱者を踏みにじる生き方をするのか、それとも弱者の側に立ち、弱い者の連帯と闘いによって新しい社会を切り開くのか、これが問われているのである。
また、青年に入党を呼びかけているにもかかわらず、この「入党呼びかけ」には、そうした現実に対する民衆の闘争については何も語られない。入党して何をするのか、この最も大事な問題については、「この社会のしくみ、発展のみちすじを学び、しっかりつかみましょう」とか、「国民に信頼される働き手をめざして、職場、地域、学園で、多くの仲間とはげましあって、学び、成長する先頭にたってほしい」などと語られるだけである。何よりも現在の悪政と資本主義によって苦しめられている民衆の先頭に立って、そうした悪と闘うことについては、何も呼びかけられていない。これではいったい何のために入党するのか?
他方で、「呼びかけ」は、「日本共産党の活動は自覚的なものです。一人ひとりが主役になり、みんなで話し合い、やりたいことに全力投球する。仲間の輪のなかで自分をみがき、人間らしい生き方を学びあう。その一人ひとりの努力が、社会を前にすすめる力につながってゆくのです」と語る。だが、「一人ひとりが主役になる」ために必要な民主主義的党内制度については、いまだにまったく保障されていない。
政治については初心者である青年にとって、党は何よりも、生きた実践的な「民主主義の学校」にならなければならない。どんな方針であろうと、実質的な異論もなく、ただひたすら活動を報告するだけで終わる各級の党会議は、そのような「学校」にはけっしてならない。一部の指導部だけが方針を決定し、それがシャンシャンで承認され、後はそれをひたすら下部が実践するという構造は、青年にとって何の魅力も感じられない。ましてや、そうやって決められた方針すら、選挙前の一部幹部の思惑によって容易に覆されるという現状は、なおさら自覚的な青年には魅力が感じられない。
青年党員の獲得、これはわが党にとって死活にかかわる課題である。今のまま推移するならば、70年代初頭に入った党員層が老人になり、活動の一線から退いた時点で、党の組織力は完全に枯渇するだろう。それは、これから20年以内に確実に訪れる現実である。選挙での一時的な前進を政治的前進と勘違いして浮かれているかぎり、この現実を直視することはできない。このような存亡の危機を回避することは、小手先の拡大運動では絶対に不可能である。路線と体質の抜本的な改革が不可欠である。選挙に埋没しない真に闘う党、民衆のあらゆる闘争の先頭に立つ党、国際連帯を重視し世界的な視野と広がりを持った党、差別や抑圧に敏感で少数者や弱者の味方になれる党、党内民主主義を隅々まで行き渡らせて戦闘的民主主義がみなぎっている党、このような党だけが、21世紀に生き残ることができるだろう。