不破委員長は、7中総における「党規約改定案についての報告」の中で、全文を削除したことについて次のように説明している。
ご承知のように、現行規約にはかなり長い前文がありました。これが内容的にもなかなか難しい部分で、たとえば新入党の方に読んでもらおうと思っても、まずそこで難航するということもしばしばありました。その内容は、党員の活動、党組織の活動に必要な規約的なとりきめというよりは、政治方針や組織方針とその解説や党員心得といったものがかなり大きな部分をしめていました。
今回の改定にあたっては、前文のなかの解説的、方針的、心得的な内容はのぞいて、党の基本にかんする、規約として欠くわけにはゆかない部分を第1章に定式化したわけです。
「新入党の方」に読んでもらうのが困難であるという理由で前文を削除するという説明自体、党員を愚弄するものであるが、それはおいたとしても、ここで述べられていることは、要するに、「党の基本にかんする」部分は第1章に定式化されたということである。つまり、前文にある大量の文章のうち、今回の規約改定案の第1章に残らなかった部分は、「党の基本」に関しないものであり、党にとってどうでもいい部分だとみなされたということである。このことをよく念頭に置いておこう。
さて、まず現行規約の冒頭にある次の文章が変えられている。
日本共産党は、日本の労働者階級の前衛政党であり、はたらく人びと、人民のいろいろな組織のなかでもっとも先進的な組織である。また、日本の労働者階級の歴史的使命の達成をみちびくことをみずからの責務として自覚している組織である。
この文章は改定案では次のようになっている。
日本共産党は、日本の労働者階級の党であると同時に、日本国民の党であり、民主主義、独立、平和、国民生活の向上、そして日本の進歩的未来のために努力しようとするすべての人びとにその門戸を開いている。
改定のポイントは不破委員長によれば、「前衛政党」という規定をなくしたことと、「労働者階級の党」を「労働者階級の党であるとともに国民の党」としたことの2つに分かれる。実際には、この2つは不可分であり、不破委員長がやっているように簡単に分けることのできないものである。とはいえ、不破委員長の報告に沿って議論するためには、われわれもまたその区別にとりあえず従わなければならない。そこでまず、「前衛政党」という自己規定がなくなったことについて論じたい。
不破委員長は、「前衛政党」という規定をなくしたことについて、次のように説明している。
もう一つの問題は、「前衛政党」という規定にありました。私たちが、これまで「前衛政党」、「前衛党」という言葉をつかってきたのは、わが党が労働者階級、あるいは日本の国民に号令をしたり、その考えや方針をわれわれが「前衛」だからといって国民に押しつけたりするという趣旨ではありません。どんな方針も、国民の共感、信頼、そして自発的な支持をえてこそ実現されるものであります。
私たちが「前衛」という言葉で表現してきたのは、実践的には不屈性、理論的には先見性、ここに集中的にあらわされると思います。
いろいろな課題を追求するときに不屈にその実現をめざし、どんな迫害や攻撃にも負けないで頑張りぬく。また当面のことだけではなく、運動の結果や先々の見通し、未来社会の展望まで科学の立場にたって見定めながら先見的な役割を果たす。この不屈性と先見性にこそ、私たちが自らを「前衛政党」とよんできた一番の核心があります。
このように、不破委員長は「前衛党」の核心として「不屈性」と「先見性」の2つを取り出し、あたかも、共産党が「前衛」という規定をこの2つの意味でのみ使ってきたかのように論じている。しかし、これではあまりに説得性がないと思ったのか、さらに、マルクスとエンゲルスが「前衛」という言葉を使わなかったと述べるとともに、「前衛」という概念に当然にも含まれている「指導性」という概念については、次のように「誤解」であると述べている。
私たちは、これまで、こういう意味で「前衛政党」という言葉を使ってきたのですが、この「前衛」という言葉には、誤解されやすい要素があります。つまり、私たちが、党と国民との関係、あるいは、党とその他の団体との関係を、「指導するもの」と「指導されるもの」との関係としてとらえているのではないかと見られる誤解であります。
しかし、この「誤解」説は、不破委員長自身がただちに自己否定している。
これは私たち自身のことになりますが、40年ほど前、国際的なある会議で、ソ連共産党を「国際共産主義運動の一般に認められた前衛」だとする規定がもちだされたことがありました。わが党の代表はこれに反対しました。反対の理由は「前衛という言葉をもちだすことは、世界の運動のなかに『指導する前衛』と『指導される後衛』があるという区別を持ち込むことになる」という批判でした。これは、的確な批判でしたが、この事例からいっても、やはり「前衛」という言葉にはそういう誤解がともないがちであります。
日本共産党自身が、ソ連の「前衛」規定を批判して、「前衛という言葉をもちだすことは、世界の運動のなかに『指導する前衛』と『指導される後衛』があるという区別を持ち込むことになる」と述べたということである。ということは、「前衛」に「後衛を指導する」という意味が含まれていることは「誤解」でも何でもないということになる。しかも、不破委員長はこの批判を「的確な批判」であったとさえ述べている。もしその批判が「的確」なら、指導性という含意は「誤解」でも何でもないということではないか。もし、前衛に「指導性」という意味を含めることが「誤解」なら、かつて日本共産党がソ連共産党に対して向けた批判は「誤解にもとづく不適切な批判」であったということになる。
しかし、このような話を持ち出すまでもなく、「前衛」という概念が、「不屈性」や「先見性」に還元されるものではなく、その核心として「指導性」(階級や運動の指導)を含んでいたことを証明することは、実に容易なことである。何よりも、現行規約そのものが「指導」の概念を用いている。たとえば、前文の2項には次のような文言がある。
党の活動と指導は、切実な国民多数の利益を尊重し、社会的階級的道義と道理にかない、節度あるものでなくてはならない。
このようにはっきりと前文は「指導」という言葉を使っている。
過去の論文をひもとけば、この点はもっとはっきりと出ている。無数の証拠を挙げることができるが、とくに重要なのは、1984年7月25日付「赤旗」に掲載された論文「科学的社会主義の原則と一国一前衛党論――『併党』論を批判する」である。その中で、はっきりと次のように述べられている。
もともと、それぞれの国の革命の事業は、その国の労働者階級が一つの統一された力を発揮することによって勝利を保障するものである。科学的社会主義の革命的原則にもとづき、労働者階級の根本的利益を代表し、その国の革命運動を統一的に指導する政党がなければ、その国の変革を正しくおしすすめることも、最終的な勝利にみちびくこともできない。このことは、これまでの革命運動、共産主義運動の歴史がおしえている。
現代では、それぞれの国でこの指導的役割をになう単一の科学的社会主義の党のたたかいを相互に支持しあうことによって、世界の共産主義運動はなりたっている。各国の革命運動の過程には、さまざまな局面があるし、また世界の共産主義運動も複雑な幾多の曲折をへてきている。しかし、どのような局面や曲折があったにせよ、一国に単一の科学的社会主義の党という立場こそ、各国の革命運動を勝利にみちびき、世界の共産主義運動を全体として発展させる力ともなるのである。(『日本共産党国際問題重要論文集』第15巻、327~328頁)
前衛党とは、階級全体の利益を代表し、そのたたかいを指導するからこそ前衛党なのである。マルクス、エンゲルスがあきらかにした見地は、これであった。一国に「複数」の前衛党を想定することは、階級をばらばらにし、プロレタリアートを自覚的な階級として結集することを不可能にし、結局階級全体を指導する前衛党の存在そのものを否定することになる。マルクス、エンゲルスが明らかにした理論的見地が、一国一前衛党の原則であることは明白である。(同、331頁)
説明を加える必要がないほど明確である。日本共産党自身がはっきり説明してきたように、「前衛政党」という概念には「階級の指導」「革命運動の指導」という概念が含まれている。しかも、党の主張によればその指導政党は「一つ」でなければならない。つまり、日本共産党が主張してきたことによるなら、前衛政党とは、階級や運動を「指導」するだけでなく、その指導権を独占しなければならないのである。過去、ここまではっきりと自ら大論文の中で述べておきながら、今さらそれは「誤解」であると片づけるとは、何ごとだろうか?
ちなみに、この論文においては、マルクスとエンゲルスは「前衛」という言葉を使っていなかったという不破委員長の説明をもあらかじめ粉砕している。この論文は、マルクスとエンゲルスから話をはじめながら、いかに、マルクスとエンゲルスが、「階級を指導する前衛政党」という立場に立っていたかを入念に証明している。それはすでに引用した文言からも明らかであるが、この論文はとりわけ、マルクスとエンゲルスの見地を説明したものとして、次のようなレーニンの言葉を麗々しく引用している(同前、330頁)。
「マルクス主義がおしえるところによれば、労働者階級の政党、すなわち共産党だけが、プロレタリアートおよび勤労大衆全体の前衛を統合し、そだて、組織することができるのであって、この前衛だけが、勤労大衆の避けられない小ブルジョア的動揺や、プロレタリアートのあいだの職業組合的な偏狭さ、あるいは職業的偏見の避けられない伝統や再発に対抗でき、プロレタリアート全体の統合された活動全体を指導すること、すなわちプロレタリアートを政治的に指導し、プロレタリアートを通して勤労大衆全体を指導することができるのである。これなしには、プロレタリアートの執権は実現できない」(「わが党内のサンディカリズム的および無政府主義的偏向についてのロシア共産党第10回大会の決議案」全集12巻、257頁)。
論文によればこれこそが「マルクス、エンゲルスの見地」だそうである。「前衛」という言葉を使っているかどうかなどという形式的水準ではなく(実際には、マルクスもエンゲルスも「前衛」という言葉を使っている)、マルクスとエンゲルスの活動とその思想内容に即して、この論文は、マルクスとエンゲルスが「階級を指導する単一の前衛政党」という立場に立っていたと主張している。この主張の是非については大いに議論の余地のあるところであるし、マルクスとエンゲルスがそこまで明確に指導政党の単一性を主張していたかどうかはまったく疑わしい。しかし、いずれにせよ確かなのは、「前衛政党」という概念に「指導性」が含まれていたことは、「誤解」でも何でもなく、わが党自身がはっきりと繰り返し大々的に主張してきたことだ、ということである。
もしわが党の指導部に少しでも誠実さがあったのなら、「誤解」などと言って片づけるのではなく、次のように言ったはずである。
「わが党はこれまで、前衛政党として自己規定し、革命運動と労働者階級を指導しうる唯一の政党としてみなしてきた。しかし、これまでの経験と理論的探求の結果として、このような規定は一面的であり、さまざまな弊害をともなうものであることが明らかになった。したがって、われわれはそうした反省にたって、今回の大会において、このような規定を削除することにした。したがって、その削除にともなって、これまで主張してきた一国一前衛党という規定も抜本的に見直し、複数の革命政党が存在しうるし、また協力しうることをはっきりと表明したい。わが党は、指導権を独占しようとするのではなく、日本の変革事業を推進しようとしているさまざまな党派や諸個人の中で、名誉ある地位を占めたいと思う」…。
だが、無謬性の神話に固執し、転換を転換と認めないごまかしの路線をひたすら推進してきた不破指導部は、問題の本質を「誤解」という一言に収斂させたのである。