以上見たように、規約前文の削除は、基本的に、国内的には「労働者階級の党」としての性格を薄め、国際的には、国際主義の原則を廃棄して一国の枠組みに閉じこもることを系統的に追求したものであり、その意味で、私たちが最初に述べた「国民主義」への純化を直接に反映したものである。
次に、消された規約前文のうち、民主集中制にかかわる部分は、5つの柱として規約改定案の中にまとめられているので、それについて見てみよう。
まず、民主集中制に述べた規約改定案の第3条を引用しておこう。
第3条 党は、党員の自発的な意思によって結ばれた自由な結社であり、民主集中制を組織の原則とする。その基本は、つぎのとおりである。
(1) 党の意思決定は、民主的な議論をつくし、最終的には多数決で決める。
(2) 決定されたことは、みんなでその実行にあたる。行動の統一は、国民にたいする公党としての責任である。
(3) すべての指導機関は、選挙によってつくられる。
(4) 党内に派閥・分派はつくらない。
(5) 意見がちがうことによって、組織的な排除をおこなってはならない。
この記述は一見したところ、簡単になったという点を除けば、現行規約における記述と重要な変化はないように見える。しかし、現行規約とよく比較するなら、ある重大な欠陥があることがわかる。それは何よりも、「民主集中制」という用語そのものにかかわっている。規約改定案の第3条をいくら読み直しても、なぜこの5つの柱にまとめられる組織原則が、他ならぬ「民主集中制」という言葉で呼ばれなければならないのかが、まるで明らかでないのだ。現行規約には、簡単ながら、共産党の組織原則がなぜ「民主集中制」ないし「民主主義的中央集権制」と呼ばれるのかについて、こう説明している。
日本共産党の組織原則は、民主集中制(民主主義的中央集権制)である。それは、党員の発意を尊重する党内民主主義と党の総意を結集する中央集権制の統一にもとづく組織原則である。
これは十分な説明とは言えないが、それでもなぜ党の組織原則を「民主集中制(民主主義的中央集権制)」と呼ぶのかが明らかにされている。しかし、規約改定案においては、このような基本的な説明がまったくなくなり、また、「民主集中制」という言葉が「民主主義的中央集権制」という言葉と同義であることについても沈黙している。唐突に「民主集中制」という言葉が登場し、その中身について5つの柱が提示されるだけである。
この問題は、重箱の隅をつつくものであるかのように見えるかもしれないが、実際にはそうではない。それは、5つの柱の中身そのものにもかかわる問題である。
現行規約において「民主集中制」を定義している「党員の発意を尊重する党内民主主義と党の総意を結集する中央集権制の統一」という文の前半は、「民主集中制」の「民主」の部分を定義しているのであるが、この部分は、規約改定案で言う「議論をつく」すことに本来還元されるものではない。たとえば、現行規約の前文には次のような一節がある。
党員は、党内民主主義を無視し党員の創意性をおさえる官僚主義や保守主義とたたかう
しかし、規約改定案にはこれに類する文言はまったく存在しない。「官僚主義」という言葉も「創意」という言葉も存在しない。真に生き生きとした党内民主主義は、議論や選挙原則だけに限定されるものではない(もっとも、現状は「議論をつくす」という状況にさえほど遠いし、選挙原則もまったく民主的なものではないのだが)。規約改定案は、簡潔にわかりやすくしたという名目で、党内民主主義の内実を大幅に切り縮めてしまった。
次に、現行規約があたりまえのように5つの柱に含めている「党内に派閥・分派はつくらない」の根拠が不明である。なぜ「党内に派閥・分派はつくらない」ことが原則になるのか、それが民主集中制とどのように関係しているのか? レーニン時代の民主集中制は、分派の存在を禁止していなかった。「分派の禁止」規定はけっして自明ではない。不破委員長は、その報告において、党の過去の経験ということを持ち出して、この分派禁止規定を正当化している。しかし、そのいずれの例も、分派禁止を正当化する根拠ではなく、分派禁止規定が存在するもとでは、少数意見が多数意見になる手段が系統的に奪われていること、したがって党内で深刻な意見の相違が生じた場合には、多数派によって少数派が大量に除名されるという最悪の事態によってしか解決されないことを示すものにすぎない。
不破委員長は、「もし、そのときに、私たちの党が、分派は結構だ、自由勝手にやってよろしいという党であったら、つまり民主集中制をもたない党だったら、この攻撃を打ち破るうえで、われわれはほんとうにたいへん困難な事態に立たされたでしょう」と述べているが、これは恣意的な総括の仕方である。分派を禁止しないことと「分派は結構だ」と考えることとは異なるし、ましてや「自由勝手にやってよろしい」ということと絶対に同義ではない。さらには、分派を禁止することと「民主集中制」も同義ではない。現在の少数意見が将来の多数意見になる可能性を保障するために分派を禁止することなく、それと同時に、現在における多数意見にのっとった行動の統一をすべての党員に義務づけることは、十分に可能である。つまり、分派を、行動分派と意見分派に腑分けし、前者を禁止して後者を容認することは可能であるし、それはけっして民主集中制と矛盾しない。
今回の規約改定において、不破委員長は党員とマスコミに対し、「党の決定は、無条件に実行しなくてはならない。個人は組織に、少数は多数に、下級は上級に、全国の党組織は、党大会と中央委員会にしたがわなくてはならない」という規定を削除したことを得意げに報告し、あたかも規約がよりリベラルなものになったかのように印象づけているが、現在の少数意見が将来の多数意見に転化する可能性の制度的保障がなされないかぎり、そのような言葉の上での「リベラル化」は絵に画いた餅にすぎない。
そしてそのような制度的保障とは少なくとも、少数意見の持ち主たちが党内で組織的存在を保持しうること(ただし行動においては多数に従う)、選挙制度が比例代表的であること、少数意見の表明が日常的に保障されていること、の3点が必要である。しかし、今回の規約改定案を見るかぎり、この3つのポイントはいずれも、現行どおりであるか、あるいは、後で詳しく見るように、現行規約よりいっそう厳しく制約されるようになっているのである。
民主集中制の内容について箇条書き的に並べた部分は、現行規約にも存在する。念のためそれを以下に引用しておく。
第14条 党の組織原則は、民主集中制である。その内容はつぎのとおりである。
(1) 党の各級指導機関は、選挙によってつくられる。
(2) 党の指導機関は、それを選出した党組織にたいして、その活動を定期的に報告する。
(3) 党の指導機関は、つねに下級組織と党員の意見や創意をくみあげ、その経験を研究、集約し、提起している問題をすみやかに処理する。
(4) 党の下級組織は、その上級の指導機関にたいし、その活動を定期的に報告するとともに、その意見を上級機関に反映する。
(5) 党の決定は、無条件に実行しなくてはならない。個人は組織に、少数は多数に、下級は上級に、全国の党組織は、党大会と中央委員会にしたがわなくてはならない。
(6) 党の指導原則は、集団指導と個人責任制の結合である。重要な問題は、すべて集団で決定し、個人が分担した任務については、創意を発揮し、責任をはたす。
以上のうち、(1)は、規約改定案の第3条の(3)に継承されている。(3)(4)は規約改定案の第15条におおむね引き継がれている。(5)は、不破委員長自身が報告で述べられているように、「誤解」(?)を生むので削除された。しかし、規約改定案に引き継がれてもいなければ、報告の中でも何ら言及されていない条項が2つ残っている。それは、(2)と(6)である。なぜ、これらの条項は削除され、そしてそれについて何も説明されていないのか?
とくに(2)の項目は、民主主義のイロハであり、絶対に落とすことのできない条項である。どんな団体であれ、選出母体と被選出者との間には、単に、前者が後者を選挙で選ぶだけでなく、選挙で選ばれた後者が前者に対して定期的にその活動について報告する義務の関係がある。いったん選挙で選ばれたら、それっきりで、後は何をしてもいいというわけではない。そんな民主主義など存在しない。とりわけ、共産党のような、全党の統一と団結を何よりも重視する団体においては、選挙で選ばれた指導機関の、選出母体たる党組織への報告義務は、欠くことのできないものであるはずだ。ところが、今回の規約改定案においては、この「報告義務」が、いかなる説明も抜きになくなっている。これは民主主義の基本原則を蹂躙するものである。
(6)項について言うと、集団指導と個人責任制の統一ということは、これまで活動の中で口をすっぱくして言われてきたことである。これは、個人的な家父長制的指導を排し、民主的な指導体制の建前を述べたものとして、(2)項に劣らず重要な意味を持っているはずである。これが削除された理由について、せめて一言あるべきではないのか?