次に規約改定案の第2章「党員」に移ろう。
改定案の第4条で党員の基本資格について規定されている。
18歳以上の日本国民で、党の綱領と規約を認める者は党員となることができる。党員は、党の組織にくわわって活動し、規定の党費を納める。
この規定は現行規約の第1条と第5条の規定を合体させたものである。
第1条 党の綱領と規約を認め、党の一定の組織にくわわって活動し、規定の党費を納めるものは党員となることができる。
第5条 18歳になった日本国民は、党員になることができる。
この第5条における「日本国民」規定は最初からあったわけではない。第8回党大会で決定された規約の第5条は単に「18歳になったものは、党員になることができる」とあるだけである(ただし、第7回党大会での規約の統一解釈で、外国人は日本共産党に入れないとされている)。その後、明文的に「日本人」規定が入り、さらには「日本人」は「日本国民」に改められるようになった。今回の規約改定案においてもこの条項は無批判に継承されている。だが現在、在日外国人に地方参政権を付与することが政治の議論にのぼり、与党野党を問わず多くの政党がそれについて賛成の立場を表明している。日本共産党もそうである。今後、在日外国人の権利についてはますます拡大の方向で進むのが、世界の流れであり、また進歩の流れでもある。とすれば、この規定をそろそろ見直す時期に来ているのではないか。日本に長く住み、働き、生活している人々は、国籍の有無にかかわらず、日本社会変革の担い手である。共産党は、そうした人々を含め日本における先進的部分をすべて結集すべき存在である。
また、経済のグローバル化と新自由主義政策は、在日外国人の比率を拡大するとともに、そうした人々を底辺に位置づける。これらの人々は、日本でも世界でも最も抑圧され搾取される階層の一部を構成しつつある。社会全体を変革するためには、最も抑圧された部分の解放のエネルギーが絶対に必要である。欧米の共産党に見習い、「日本国民」条項をこの機会に撤廃するべきではなかろうか。
「日本国民」条項が残った一方で、規約改定案の第5条の「党員の権利と義務」の項目の1番目に「市民道徳と社会的道義をまもり、社会にたいする責任をはたす」が入っている。これは今回のさまざまな改定の中で最も文意の不明な一文である。
「社会的道義」というのは普通に理解可能であるが、しかし「市民道徳」とはいったい何か。不破委員長は報告の中で次のように述べている。
市民道徳の内容は、とくにここでは規定してありませんが、前回の第21回党大会の決議のなかで、教育の問題に関連してでありますが、私たちが考えている市民道徳の項目を提起しました。「人間の生命、たがいの人格と権利を尊重し、みんなのことを考える」、「真実と正義を愛する心と、いっさいの暴力、うそやごまかしを許さない勇気をもつ」に始まり、「男女同権と両性の正しいモラルの基礎を理解する」などもふくむ10項目です。
私たちが前大会で提起したのは、子どもたちの教育の問題としての市民道徳の内容ですが、これらの市民道徳の諸項目は、もちろん子どもたちだけの問題ではありません。私たちは子どもたちが日本社会の構成員として育つうえで不可欠のものとして提起したわけですから、これらは、党活動、党生活の基盤としても大切な意義をもつものです。
奇妙な話である。「たがいの人格と権利を尊重する」や「真実と正義を愛する」や「男女同権」といったことは、「科学的社会主義を理論的基礎とする」ということと無関係なのだろうか? 「科学的社会主義」の価値観の中には、「人格や権利の尊重」や「男女同権」などは含まれていないというのだろうか? もちろんそんなことはない。科学的社会主義(マルクス主義)は、「人格や権利の尊重」や「真実と正義を愛する」や「男女同権」を、道徳的お題目としてではなく、また支配階級の欺瞞や偽善としてでもなく、労働者階級の自己解放(そして人類の自己解放)にとって不可欠な構成要素として位置づける。そして、そのような位置づけがあってこそ初めて、これらの徳目は、偽善的な建前から真に意味のある内実になることができるのである。
たとえば「嘘やごまかしを許さない」という項目を例に挙げよう。科学的社会主義は、一般に「嘘やごまかしを許さない」という定言命令を設定しはしない。たとえば、ストライキをしようとしている労働組合は、その日時や規模について、当然、資本家に対して嘘をつかなければならないし、彼らの目をごまかさなければならない。あるいは、共産党員は、企業の労務や国家権力に対して、自らの正体についてしばしば嘘をつかなければならないし、彼らの目をごまかさなければならない。しかし、たとえば、党指導部が、自らの誤りをごまかしたり、自らの政策や路線について党員や支持者に嘘をつくことは許されない。
こうした諸事例において一貫した基準になっているのは、労働者階級による自己解放というマルクス主義の基本原則である。労働者階級が自己解放を成し遂げるためには、高い意識性、広い視野、射程の長い展望、理論的素養、固い意志と実行力、等々の資質を必要とする。そうした資質を広げ伸ばすことは、労働者階級の歴史的使命を自らの任務とする政党にとって最も重要な課題である。したがって、共産党の実態について労働者をだまして支持させたり、指導部に対する無批判的な崇拝をつくりだしたり、といった行為は、労働者の意識をくもらせ、彼らを堕落させ、混乱の種をまくことになるがゆえに、許されないのである。
ところが不破指導部は、今回の報告においてすでに、「前衛政党」という規定に「指導性」という概念が含まれていたという事実を認めずに、それを「誤解」だとごまかしている。この「ごまかし」は、市民道徳の観点からしても、階級的観点からしても許されないことである。この「ごまかし」は、無謬の指導部という体裁を維持したいという官僚的思惑から生じている。不破指導部はこのようなあからさまな「ごまかし」と「嘘」をやりながら、他方では、党員に対して、「市民道徳」を説いているのである。
では、階級的基準を完全に欠落させた「市民道徳」論を、わざわざ「党員としての権利と義務」条項のいちばん最初に持ってきたことの意味は何であろうか? これはおそらく、現存のブルジョア的秩序への順応を党員に徹底させること、それを通じて、支配階級に対し、共産党が危険な存在ではないことを印象づけ、政権参加への道を広げることを意図していると思われる。
たとえば、大衆運動が高揚するとき、その最先端部分ではしばしば「市民道徳」や個々の法律に反する行為が自然発生的に起こる。そうした行為を無批判に賛美するわけではないにせよ、それは高揚した大衆運動に必然的にともなうものであり、一概に否定することはできない。今回の規約改定案における「市民道徳」条項は、そうした行為に党員が参加したり、あるいはそうした行為がともなう運動に党員が参加することを禁止するものとして作用するだろう。
もし、「党員の権利と義務」のところに一般的な社会的規範をどうしても導入したいというのなら、「市民道徳」などという意味不明な言葉ではなく、もっと明確な用語、たとえば「基本的人権の尊重」や「市民的諸権利の尊重」といった言葉を入れるべきだろう。だが、そうした「基本的人権」や「市民的権利」をわが党の規約自身が蹂躙しているので、そのような条項を守ろうとすれば、規約の反人権的・反民主的条項を放棄するしかないが。