革新運動の大義を裏切った決議案

5、決議案における自衛隊政策の犯罪性(3)
 ――過渡的段階としての21回大会決議

 自衛隊の解消を段階的なものとしたのは、今回の大会決議案が初めてではない。それはすでに、前回大会決議で示されていた。念のためその部分を引用しておこう。

 第20回党大会の決議は、憲法9条の先駆的意義をたかく評価しながら、安保条約を廃棄した独立・中立の日本の安全保障についてつぎのようにのべた。
 「わが国が独立・中立の道をすすみだしたさいの日本の安全保障は、中立日本の主権の侵害を許さない政府の確固とした姿勢と、それをささえる国民的団結を基礎に、急迫不正の主権侵害にたいしては、警察力や自主的自警組織など憲法9条と矛盾しない自衛措置をとることが基本である。憲法9条にしるされたあらゆる戦力の放棄は、綱領が明記しているようにわが党がめざす社会主義・共産主義の理想と合致したものである」
 わが党は、この道こそが憲法を忠実にまもる道であると確信している。同時に、「あらゆる戦力の放棄」という方策が、安保条約を廃棄する政権ができたからといって、ただちに実行できる方策でないことは、明白である。安保廃棄での国民的合意と、自衛隊解消の国民的合意とは、おのずからちがいがある。安保廃棄とともに自衛隊の大幅軍縮、米軍との従属関係の解消、政治的中立性の徹底などにとりくみつつ、憲法9条の完全実施――自衛隊解消は国民的な合意の成熟によってすすめるというのが、わが党の立場である。
 今日の世界史の発展段階は、わが国が恒常的戦力によらないで平和と安全を確保することを可能としている。第1次世界大戦までは、侵略が天下御免の時代だった。しかし2つの世界大戦をへて、武力行使の禁止、紛争の平和解決が国際的ルールとなるところにまで、人類史は発展している。第2次世界大戦後にも百数十の武力紛争がおこっているが、侵略がおこなわれたケースは、軍事同盟がてことされた場合、民族内部の対立が口実とされた場合、領土問題が口実とされた場合が、ほとんどである。独立・中立を宣言し、諸外国とほんとうの友好関係をむすび、国民的団結によって主権を確保している日本には、どの国からであれ侵略の口実とされる問題はない。わが国が恒常的戦力によらないで安全保障をはかることが可能な時代に、私たちは生きているのである。

 この決議は、憲法9条を将来にわたって守ることを高らかに謳い上げた第20回党大会決議から、自衛隊の事実上の容認をうたう今大会の決議案とを媒介するものであり、その役割を非常に控えめに果たしている。このときの決議を起草した党指導部が、すでにこのときに、次の大会で自衛隊の容認と活用に党の政策をもっていくことを十分に意識していたかどうかはわからない。しかし、その可能性は大いにあると言わざるをえない。
 まず第1に、第20回大会決議が無条件に憲法9条の意義を語っていたにもかかわらず、この第21回党大会決議は、20回大会決議をわざわざ引用し、それを受けついでいるかのような体裁を取りながら、「戦力の不保持」という概念を巧みに「恒常的戦力」という問題にすりかえている。これは、その後、不破委員長など党幹部が打ち出すことになる「臨時の戦力ないし軍事力は合憲」説、「憲法9条が禁止しているのは常備軍だけ」説への巧みな橋渡しになっている。もちろん、憲法9条は、常備軍のみならず「あらゆる戦力」を禁止している。
 第2に、安保廃棄の時期と自衛隊解消の時期とは「おのずからちがいがある」と述べて、その自衛隊解消の時期を「国民的な合意の成熟によってすすめる」としていることである。
 われわれは、この決議を読んだとき、このくだりに一抹の不安を感じた。というのは、なぜわざわざ安保廃棄と自衛隊解消との時期の相違を強調し、「国民的な合意の成熟によってすすめる」という、もって回った言い方をするのか、という疑問が湧いたからである。どんな政策も、選挙によって示される国民の選挙多数派の意志なしには実現しえないという一般論からするなら、「国民的な合意の成熟によってすすめる」というのは、当然の一般論を言っただけのようにも読める。しかし、どんな政策でもある意味で、力関係上、選挙多数派の意思を無視して進めえないのだから、自衛隊についてだけこのような「国民的な合意」を云々するのには奇妙である。しかも「国民的な合意」というのは実に曖昧な言葉であり、どこまで自衛隊解消論が多数になれば「国民的合意」になるのか不明である。
 憲法論的に言えば、違憲の存在や行為は、本来、国民の多数派の意志と無関係に排除されなければならない。たとえば、国民多数派がいかにある被疑者を拷問にかけることを要求したとしても、憲法が拷問を禁止しているかぎり、それを当局者が行なうことはできないのである。これが立憲的秩序の意味するところである。憲法で保障ないし禁止している諸行為が、その時々の国民多数派の意志によって左右されるならば、憲法の規範的意味は何も存在しないことになる。だからこそ、憲法違反の盗聴法は、いくら国会で採決されようとも、それは憲法論的には無効の法律であり、憲法を守る政府ならば、国民世論の多数がいかに盗聴法に賛成していても、盗聴法はただちに廃止されなければならないのである。とりわけ、憲法の3原則である主権在民と基本的人権の尊重と戦力不保持は、将来にわたって改悪不可能なものとして想定されている。とするならば、違憲の自衛隊は、憲法にのっとって、国民多数派の意志とは無関係にただちに解散されなければならない存在なのである。
 とはいえ、その自衛隊を実際に解散させるには、それを目標とする政党が選挙で多数をとらなければならない。つまり、選挙多数派の合意が必要だというのは、手続き上の民主主義要件から生じる要請ではなく、あくまでも実際にそれを行ないうる行政権力および立法権力が存在するために必要な、「力関係」上の要請なのである。そして、自衛隊の解散を綱領に掲げる共産党が選挙で多数をとり、それを目標とする民主連合政府が合法的に成立したならば、この「行政権力」および「立法権力」上の要請をも満たしていることになる。にもかかわらず、違憲の自衛隊を解散させるにあたって、「国民的な合意の成熟」をあえて強調することは、すでにこの時点で、共産党の展望する民主連合政府が立憲的秩序にもとづかないことを告白するものにほかならない。ここに、すでに、自衛隊解散の展望を遠い将来に先送りする布石は打たれていたというべきだろう。しかし、われわれはこの時点では、そこまで十分には洞察しえなかった。

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