社会党の段階的解消論は、国際環境の安定化や国民世論の支持という条件が整備されないかぎり、最終段階にまで至らないという立場である。これを当時の共産党は「自衛隊の長期存続論」であると厳しく批判した。共産党もまた、決議案で、第3段階において「アジアの平和的安定の情勢が成熟すること、それを背景にして憲法9条の完全実施についての国民的合意が成熟すること」という条件を、自衛隊解消に取り組む際の絶対条件にしている。これだけなら、社会党と同じであるかのように見えるが、しかし、この文意を解説した志位書記局長の発言を見るかぎり、それにとどまらない意味を持っている。
志位書記局長は、今年9月24日放映のフジ系「報道2001」に登場し、次のように述べている。
憲法9条は、だれがみても常備軍を禁止しているんですよ。一方で自衛隊がある。これはだれがみても常備軍なわけですね。これはおそらく菅さんのところも異論がないんじゃないかな。つまり、9条というものと自衛隊の現実が矛盾している。私たちは憲法違反の現実があると(考えています)。これが一番の矛盾なんですよ。
ただこの矛盾を一足飛びに解決できるかというと、解決できない。これは一定の段階をおって、安保があるもとではここまで解決する、安保を廃棄した段階ではここまで解決する、そしてさらに国民のみなさんの合意が、みんなこれ(自衛隊)がなくても大丈夫だと、万が一でも大丈夫だとなって、そしてはじめて解消の段取りにふみだしていく。段階的にずっと解決していく方向をこんど決議案では出したんですね
さらに、もう一度同じような発言を繰り返している。
解散への段取りを、私たち、今度の決議案にくわしく書いているんですけれど、私たちは将来、日米安保条約をなくすという方向を目指しています。日米安保条約をなくした日本が、憲法9条にもとづく平和の外交を周辺諸国とやる。とくに中国、朝鮮半島、東南アジア、アメリカ、ロシア、この5つの国々(・地域)と平和友好のほんとうの関係をつくる。そして万が一にも、国民のみなさんがそういう心配がなくなるという段階になってはじめて、これに着手するというのがこんどの方針なんですよ。
ここで繰り返されていることから明らかように、共産党が自衛隊の解散に着手するのは、「国民のみなさん」が、「万が一にでも大丈夫だと」考えるようになってからである。だが、「国民のみなさん」とは、いったい国民の8割なのか、9割なのか? また、「万が一でも大丈夫」などという想定がそもそもありうるのか? 世の中に「絶対」ということがない以上、「万が一でも大丈夫」ということは、ありえない想定である。志位書記局長は、7中総の結語において次のように述べている。
これについての私たちの考え方をのべますと、「急迫不正の主権侵害」がおこり、警察力だけでそれに対応できないケースがうまれた場合に、自衛隊を活用することは当然になります。そのことはこの表現のなかにふくまれています。こうしたことは現実的にはほとんど想定されないことですけれども、理論的にはそういう場合にどうするかという回答は必要になります。ですからそういう場合の理論的回答としていうならば、そういう場合に、国民の安全を守るために自衛隊を活用することは当然であるというのが私たちの立場になります。
「現実的にはほとんど想定されない」が、「理論的にはそういう場合にどうするかという回答は必要にな」ると志位書記局長は言っている。ということは、現実には「ほとんどない」としても、「理論的には想定しうる」のだとすれば、「万が一にも大丈夫」などという想定自体が意味をなさないということになる。
また、6月8日付『朝日新聞』の不破委員長のインタビューを解説した6月13日付『しんぶん赤旗』は、このときの不破委員長の発言について次のように説明している。
不破委員長は、「昔、自民党政権の福田首相でさえ、外国の侵略の可能性というのは、万万万が一の話だといったことがあるが、今日のアジア情勢のもとでは、実際的には考えられないことだ」と断ったうえで、「理論的にいえば、侵略に対抗する手段として、自衛隊を活用するのは、当然」と答えたものです。
このように不破委員長は、実際の可能性が「万万万が一」しかない場合でさえ「理論的には、侵略に対抗する手段として、自衛隊を活用する」と述べている。つまり「万が一でも大丈夫」だとしても、「万万万が一」に侵略されたらどうするのかという理論的可能性を想定し、その場合には自衛隊を活用すると言っているのである。この論法で言ったなら、自衛隊解消に着手することは永久にありえないだろう。
このように、共産党が言う「国民的合意の成熟」にもとづく自衛隊解消論とは、理論的に想定不可能な状況を前提にしたものであり、まさに「自衛隊の半永久的存続論」以外の何ものでもない。だからこそ、われわれは、このような段階解消論を「事実上の自衛隊容認論」だと言うのである。