だが自衛隊を活用するとはどういう意味を持つのだろうか? それは、今回の決議案のように、「必要にせまられた場合には、存在している自衛隊を、国民の安全のために活用することは当然である」と言ってすますことのできる性質のものだろうか? まったく否である。すでに別刷り『学習党活動版』の第1号のいくつかの意見書が述べているように、そんな簡単な問題ではない。
まず第1に、自衛隊を必要な場合に活用するためには、日常的に軍隊としての訓練が行なわれていなければならない。軍隊としての、殺人装置、暴力装置としての部隊の訓練が行なわれていないかぎり、「必要にせまられた場合」に使用することなどできない。こうして、もはや共産党は自衛隊の訓練に反対することができなくなる。
第2に、自衛隊を必要な場合に活用するためには、必要な装備と予算が保障されていなければならない。必要な装備も予算もない軍隊など、「必要にせまられた場合」に使用できないからである。
第3に、自衛隊を実際に使う際の法的ルールづくりが必要になる。そのような法的ルールなしに自衛隊を使うことは、法治国家の原則を覆すことになるからである。軍隊を実際に使用する法的ルールのことを「有事立法」という。今回の決議案では「有事立法」について何も語られていないが、それも偶然ではない。自衛隊の活用を認めたかぎりにおいて、もはや有事立法に反対する根拠はなくなった。残るのは、どのような有事立法をつくるのか、ということだけである。
第4に、「必要にせまられた場合」に「国民の安全を守るために」自衛隊を活用することを認めることは、自衛隊が国民の安全を守る軍隊であることを認めることを意味する。だが、自衛隊が本当に国民の安全を守ることのできる存在なら、なぜそのような大切な存在をわざわざ解消しなければならないのか? 憲法9条に違反するからか? 国民の安全を守ってくれる軍隊を解散させなければならないような条項など、どうして守る必要があるのか? それなら、国民の安全を守らない9条を廃棄して、国民の安全を守る自衛隊を合憲にすべきである、ということになるではないか。
第5に、共産党の参加する政権で自衛隊を活用して当然なら、現在の保守政権でも「国民の安全を守る」ために自衛隊を活用していいはずである。この立場はまさに、軍事的祖国防衛主義の容認を意味する。今回の決議案は、現在の政府による自衛隊活用の是非について沈黙している。だが不審船事件に対する対応だけから判断しても、もはや現政府による自衛隊活用に党指導部が原則反対ではないことは明らかである。党指導部の判断基準はただ、本当に必要な自衛隊活用なのかどうか、という一点だけである。
第6に、真っ向から憲法を否定する自衛隊でさえ「必要にせまられた場合」に活用して当然なら、それ以外のあらゆる違憲の制度や、あるいは、違憲にいたらないが反動的な制度も、「必要にせまられた場合」に活用して当然ということになる。自衛隊を活用するのは当然だが、在日米軍を活用するのはだめだ、という論理が成り立つだろうか? 自衛隊を活用するのは当然だが、周辺事態法を活用するのはだめだという論理が成り立つだろうか? 自衛隊を活用するのは当然だが、盗聴法を活用するのはだめだという論理が成り立つだろうか?
自衛隊の活用を認めるということがいったい何を意味するのか、それは以上簡単に見てみただけでも明白である。それは、あらゆる階級的基準を蹂躙するだけでなく、革新の大義のすべて、憲法の原則のすべて、党の過去のすべてを否定し、裏切ることを意味する。
さらに、現在、まさに周辺事態法の成立によって、自衛隊が軍隊として機能させる法律が作られ、有事立法の制定さえも画策されている今日、そして排外主義的なナショナリズムが掻き立てられ、「日の丸・君が代」が法制化され、国家主義的イデオロギーが席巻しつつある今日、このような「自衛隊の活用」を当然視する決議を共産党が挙げること自体、国民の自衛隊に対する幻想と信頼をいちじるしく強化し、危険なナショナリズムに拍車をかけること以外の何ものでもない。今回の決議案における自衛隊政策は、言葉の純粋な意味で階級的裏切り行為であり、規約が禁止する「党と人民の利益をいちじるしくそこなう」ものに他ならない。