今大会の決議案における自衛隊活用論は、憲法の観点からしても、階級的観点からしても、絶対に容認できないものである。
階級的観点からの批判については、先の節で多少とも述べた。かつての党指導部は、自衛隊を批判するのに、単に「違憲」であるということだけでなく、人民弾圧の軍隊、支配階級の暴力装置、対米従属の侵略装置であるということを強調してきた。ここでつけ加えておくべきは、民主連合政府ができたときに、その政権が何よりも配慮すべきなのは、正体不明の侵略者から自衛隊によって「国民の安全を守る」ことではなく、アメリカ帝国主義と結託した自衛隊から「政権と人民の安全を守る」こと、である。
一部の人々は、自衛隊によるクーデターの危険性を考えて、十分な国民的合意なしに自衛隊解消に手をつけるのは、相手を挑発することになり危険である、と考えている。しかし、このような発想はまったく間違っている。
チリ革命の教訓は、他のすべての革命と同じく、最初のささやかな勝利を獲得した革命は、何よりもまず自国の軍隊から自らを守らなければならないこと、その最良の手段は、その軍隊を解体すること、そしてその過程が長引けば長引くほど、クーデターの危険性が強まること、を教えている。軍隊は、ブルジョア国家機構のあらゆる装置の中で、最も革命的影響を受けにくいものとして存在している。それは、支配階級にとっての権力維持の最後の手段であるからだけでなく、軍隊という組織がもつ絶対的服従の習慣と最も強固なヒエラルキー構造、そして最終的には銃殺の恐怖によって支えられる忠誠とが、そのような外部からの影響を最小限に押しとどめているからである。しかし、たとえ軍隊がいかに反動的で階層的であったとしても、革命政党を政権に押し上げるような激しい革命的上げ潮期においては、そうした外部からの影響を完全に防ぐことはできない。動揺は、最も大衆と近い部分である末端兵士から生じるし、しばしば将官クラスにおいても生じる。武器を手にクーデターを起こすことも辞さない反動的将軍といえども、内部の動揺を完全に制圧し、軍隊の政治的中立という建前と憲法的秩序という合法的枠を公然と破壊して武力クーデターに軍隊を立ち上がらせることは、そう簡単にできることではない。そのためには、一定の時間を必要とする。
革命が政権を獲得しうるほどには強くなっているが、軍隊をはじめとするブルジョア国家の暴力装置を完全に制圧しうるほど強くはなっていない最初の不安定期こそ、革命にとって最も危険な瞬間である。反動的将軍が軍内部の動揺を克服して公然たる軍事力に頼る決意を固めるまでの時期にこそ、そのような武力反抗を不可能にする軍隊解体措置をただちにとらなければならない。この場合、電光石火の行動こそが命運を決する。時間が決定的要素になる。段階的解消などと称して、少しづつやろうとすることは、政治的自殺行為である。権力をまだ手放していない軍の上層部と支配階級が、自分たちの軍隊が少しづつ削減されていくのを指をくわえて見ているだろうと考えるのは、あまりにも無邪気である。
とくに日本の場合は、日本国内の合法性にほとんど縛られないアメリカ帝国主義と米軍が自衛隊のバックに控えている。チリ革命のときも、クーデターをそそのかし支えたのは、アメリカ帝国主義であった。自衛隊を段階的に解消することができると信じるためには、日本の支配階級と自衛隊の上層部だけでなく、世界のあらゆるところでクーデターを遂行してきたアメリカ帝国主義でさえ、そうした過程を黙って傍観しているだろうと前提しなければならない。だが、そのような前提に何の根拠もないことは明らかではないか。
自衛隊の段階的解消は不可能である。それは、政権の変質と自衛隊の半永久的存続の容認につながるか、あるいは、政権そのものが自衛隊によって一掃される事態に終わるかのどちらかである。
今回の決議案は、自衛隊がまぎれもなく違憲の存在であることを認めている。にもかかわらず、自衛隊の活用を当然とする。これは、別刷り『学習党活動版』の意見書の中でも指摘されていたが、憲法の規範性を完全に否定するものである。存在自体が違憲である自衛隊を、軍事的防衛力として活用することは、いっそう違憲の行為である。
たとえば、盗聴法は憲法違反の法律である。だが、その違憲の盗聴法を活用して、実際に盗聴したとすれば、その違憲の度合ははるかに大きい。周辺事態法は違憲の法律である。だが、その周辺事態法を活用して、後方地域支援を自衛隊にやらせたとすれば、それは、もっと違憲の度合の大きい行為である。不破指導部は、野党連合政権においては周辺事態法を発動しないことを条件としている。周辺事態法を廃棄するのではなく、ただ発動しないだけにとどめているのは、われわれがすでに何度も指摘してきたように、中途半端で日和見主義的な態度である。だが、いずれにせよ、不破指導部が少なくとも周辺事態法を発動しないことを条件にしたのは、周辺事態法が存在することよりも、それを発動(活用)することの方が違憲性と問題性が大きいと認識しているからだろう。
にもかかわらず、今回の決議案は、自衛隊を違憲だと断罪しながら、こともなげに「必要にせまられた場合には、存在している自衛隊を、国民の安全のために活用することは当然である」と言い切るのである。かつての社会党でさえここまで安直なことは言わなかった。憲法問題を少しでもかじったことのある人なら、このような文章に度肝を抜かれたはずである。この文章には、違憲の軍隊を使用することと憲法との関係について何の言及もないだけでなく、いかなる条件のもとで、どういう場合に、どのようなルールにのっとって「活用」するのかについてもまったく語られていない。ほとんど、フリーハンドで自衛隊の活用を認めている。唯一の条件は「必要にせまられた場合」というものだけである。必要もないのに自衛隊を使用することは、反動政府でもありえない。「必要にせまられた場合には活用する」という文言は、まさに反動政府以上に自衛隊を安易に用いることを公約するものである。
すでに紹介した第12回党大会の報告から明らかなように、共産党は以前、将来は改憲して、民主主義革命政府にふさわしい自衛力をもつことを展望していた。それに至る必然的な段階として安保条約の廃棄と自衛隊の解散を位置づけていた。しかし、その後、共産党はしだいに、将来の改憲については口にしなくなり、第20回党大会において正式に、憲法9条を将来にわたって堅持するという立場を打ち出した。護憲派の憲法学者はこうした転換を歓迎したが、実際には、この護憲路線はまったく底の浅いものだった。
まず第1に、憲法9条を将来にわたって守るという立場への転換そのものが、十分な党内討議を経たものではまったくなかった。以前の立場、すなわち憲法を改正して革命政府にふさわしい防衛力を持つという立場の何が問題であり、なぜそれが放棄されなければならなかったのか、これについてはまったく説明されなかった。憲法9条のもつ普遍的意義が一方的かつ情緒的に強調されたにとどまった。憲法9条の意義を、いわば階級的観点から基礎づける作業はまったくなされなかった。
第2に、9条護憲のへの転換にもかかわらず、9条をめぐって憲法学界および護憲運動がこの数十年間に積み重ねてきた理論的蓄積や先駆的実践の積み重ねがまじめに検討されたり考慮されたりすることはなかった。その最たる証拠が、当時から現在にいたるまで、党幹部が何かというと持ち出す憲法論の著作がほとんど唯一、今から40年以上も前に出版された著作である『註解日本国憲法』であるという事実に象徴されている。この著作は、『さざ波通信』第3号の「憲法9条と日本共産党」でも明らかにしたように、9条改憲派の著作である。さらに、現在の護憲派の憲法学者の多くが、憲法9条が自衛権を否定しているという立場に立っているにもかかわらず、自衛権の承認をあいかわらず当然視していることにも、憲法9条に関する党幹部の一知半解ぶりがよく示されている。最近では、党指導部は、憲法9条が否定しているのは常備軍だけだという、憲法学界でほとんど誰も支持していない珍論を平気で振りまいている。
このように、9条護憲への共産党の路線転換は、まったく浅薄で不真面目なものであった。今から考えるなら、第20回党大会における9条護憲論への転換は、共産党の自衛隊論において階級的観点を洗い流す通過点としての役割を果たすことになった。この大会以来、自衛隊の問題点はほとんど違憲であるということに絞られるようになり、自衛隊のもつ反人民的・弾圧的性格について言及されることはますます少なくなっていった。今ではまったく自衛隊の階級的性質について語られることはない。結局、9条は、軍隊に対する階級的観点を放棄する絶好の口実にされただけであった。そして、今では憲法的観点さえ放棄されつつある。
かくして、この間の共産党の変遷を総括すれば次のようになる。まず9条論でもって階級的観点を放棄し、次に現実主義の名のもとに憲法的観点も放棄する。そして行き着いた先は、自衛隊の半永久的存続論と自衛隊の活用論である。