今回の決議案において、天皇問題については次のように述べられている。
日本共産党は、当面の日本の民主的改革において、憲法の進歩的条項はもとより、その全条項をもっとも厳格に守るという立場をつらぬく。この立場は、わが党が野党であっても、政権党になったとしても、同じである。わが党がめざす民主連合政府は、政府として、憲法第99条にもとづいて現行憲法を尊重し、擁護する立場にたつ政府である。天皇制についても、いまわが党がもとめているのは、憲法でさだめられた国政への不関与(第4条)、国事行為の範囲の限定(第6・7条)などを、厳格に守ることである。
21世紀の日本の未来を、より大きな視野で展望したときに、社会の発展にともなって、憲法も国民の総意にもとづいて発展することは、当然のことである。天皇制も、国民主権との矛盾をはらんだ存在として、永久不変の制度ではありえない。
わが党は戦前の「翼賛政治」に反対した唯一の党として、戦後の憲法制定時、専制的天皇制支配を排し、徹底的な民主化を要求する見地から、天皇の象徴化など現行憲法の反動的条項に反対し、主権在民をもりこませるなど、より民主的な憲法を実現するために奮闘した。反動勢力が憲法改悪、天皇の元首化をくわだてている今日、憲法制定時にわが党のとった態度の正しさは、いよいよ明白となっている。(『前衛 日本共産党第17回大会特集』89頁)
天皇条項を「反動的条項」を言い切り、憲法制定時にそれに反対したことの「正しさは、いよいよ明白となっている」とこの決議は述べている。この問題をめぐっても、現在の党指導部の陥っている堕落の深刻さがよくわかる。
共産党は、今年の「皇太后」の死去に際して、共産党としては歴史上初めて皇族の死に弔意を表し、参院での弔詞文にも賛成した。皇族の一人が死んだことに、わざわざ各党の党首が弔意を表明し、国会が弔詞文を捧げることは、まさに天皇を元首化する試みの一環であり、国民主権の原則を蹂躙することである。
ところが、この問題に関し、志位書記局長は、次のように弁明した。
「今の憲法を守る限り天皇制と共存していく立場であり、象徴天皇制も国の機構だ。それを担う方が亡くなられたので、当然弔意を表す意味で賛成した」(6月20日付『朝日新聞』)
「担う方」とは! さらに、昭和天皇の死の場合との対応の違いを聞かれて、「昭和天皇の場合は戦争責任の問題があった」と答えている。だが、別刷り『学習党活動版』第1号に掲載された意見書が鋭く反論しているように、このような言い訳はまったく成り立たない。同じように皇族の一員であり、昭和天皇ほどの「戦争責任」のない高松宮が死去した際、共産党ははっきりと弔詞文に反対したが、そのときの主張はどうであったか、当時の『赤旗』記事から引用しておこう。すべての党員はよく読んでもらいたい。
故高松宮に弔詞朗読――参院 共産党は反対し欠席
参院本会議は4日の各党代表質問に先立ち、3日に死去した高松宣仁氏への弔詞を自民、社会、公明、民社、新政クラブ、サラリーマン新党、二院クラブの賛成で決め、藤田参院議長が弔詞を朗読しました。日本共産党は、弔詞の議決を議題にすること自体おこなうべきではないとの立場から、冒頭、欠席しました。
本会議の前に開かれた議院運営委員会で共産党の諫山博理事は、弔詞の議決にたいし「皇族の一人である高松宮が死去したからといって、院とは無関係であり、主権在民の憲法の下で、国民と異なる特別の取り扱いをおこなう必要はない」と強調し、「わが党は、国会が弔詞を呈するのは反対だ」「本会議の当該議事の間は出席しない」とのべました。(『赤旗』1987年2月5日)
このように、共産党はこのとき、弔詞の議決を議題にすること自体に反対し、堂々と欠席している。そして、その理由は、高松宮が戦争責任を負っているからではなく(もちろん、高松宮は「皇太后」と同じく皇族の一員としての戦争責任を部分的に負っているのだが)、皇族を国民と異なった取り扱いをすること自体が、憲法の主権在民原則に反するからである。このときの共産党は、何と「革命的」であったことだろう!
ところで「皇太后」が死んだとき、マスコミはいっせいに一面トップで報道し、特別番組を放映し、紙面を何面も使って特集し、ありとあらゆる美談を掲載した。これはまさに皇族を特別扱いし、主権在民を否定し、天皇制を強化しようとするイデオロギー操作である。しかし、共産党は、そうした報道姿勢に対し、ただの一言も批判意見を述べなかった。それに対し、1987年の共産党は、マスコミが高松宮の死を大々的に報道したことに激しく噛みついている。同じ日の『赤旗』の「マスコミ時評」の一部を引用しておこう。
3日、天皇の弟、高松宮が死去しましたが、その直後からのテレビ、ラジオ、新聞各紙の報道ぶりはたいへん異様な感じを国民にあたえました。
……こうした報道ぶりは、葬儀の予定されている10日に向けて、なおつづけられようとしていますが、天皇の弟だから、皇族だからといって高松宮の死をなにか特別の大事件であるかのように扱うのでは、国民主権をうたった現憲法のもとでのジャーナリズムの根本的な姿勢が問われるといわれても仕方ないでしょう。
ちょうど国会では、売上税、大軍拡の問題をはじめ国民の暮らし、平和、民主主義に直結する大問題が代表質問でとりあげられ、日本共産党の不破委員長などが中曽根首相をきびしく追及していたところです。異常な高松宮死去報道は、こうした重大問題を後景にしりぞかせる役割をはたした点でも、国民にたいへんな不利益をもたらすものとなったことは明らかです。
こうした批判は、ほとんどそのまま「皇太后」の死去の際の過熱ぶりにもあてはまる。このときの共産党と現在の共産党との間には深淵が横たわっている。