「国政と地方政治での新たな前進をめざして」と題された第5章と、「全党の知恵と力を結集して、強大な日本共産党の建設を」と題した第6章はまとめて論じたい。
第5章の中では、選挙の基本は政党選択であるとして、比例代表選挙について、決議案は次のように述べている。
比例代表選挙は、全国どこの1票も議席増にむすびつく選挙であり、全国が文字通りの必勝区である。この選挙での議席増に、全国すべての党組織が、心を一つにして挑戦する。この制度を、政権党の党略的思惑で改悪し、政党選択の制度から、「非拘束名簿式」という個人選挙中心の制度に変えようとするたくらみがすすんでいる。わが党は、これにきびしく反対する。
与党が国会で強行採決した参院の非拘束名簿式制度の最大の問題点は、個人に投じられた票を、その個人が属する政党にそのまま横流しすることができる点にある。これは、政治能力や政策とは別個のところで形成された個人人気を利用して、集票力の落ちた与党(とりわけ自民党)の延命を図ろうとする点に最大の問題がある。『しんぶん赤旗』もそう主張していたはずである。しかし、この決議案の文章だと、非拘束名簿式の問題点が「個人選挙中心の制度」であるかのように読めてしまう。同じような趣旨の文章は、第3章にも見られる。
参議院の比例代表の選挙制度を、「非拘束名簿式」に改変するという政権与党のくわだても、政党選択というこの制度の土台を根底から崩す、むきだしの党利党略の動きである。
われわれはもちろん、非拘束名簿式の選挙制度には絶対反対であるが、しかし、選挙における個人選択の要素を無視するべきではない。戦後日本の衆院で最も長くとられていた制度は、個人中心の中選挙区制度だった。この選挙制度のもとで、共産党は過去最大の議席41議席を獲得した。この時期、共産党の国会議員には個性派がそろっており、その名前を党員なら誰もがよく覚えていた。しかし、中選挙区制が廃止され、小選挙区・比例代表の並立制になって以降、共産党議員の個性はしだいに消失していった。とりわけ、名簿の比較的下位の部分で当選した党議員の場合、その名前すら覚えられないことがあるぐらいである。
小選挙区制度と拘束式比例代表選挙とは、民意の反映という観点からすれば、正反対の制度であるが、ある一点において共通性を持っている。すなわち、どちらの制度も、党執行部の権限をいちじるしく強化するということである。小選挙区で、大政党の公認を得られない候補者の当選はいちじるしくきびしくなるので、執行部の権限を強める。拘束式では、執行部が名簿搭載者と順位を全面決定するので、やはり執行部の権限を強化する。そして、両者を比較すると、個人の魅力で小選挙区制を制することもありうるので、拘束名簿式比例代表選挙が最も執行部の権限を強化する制度であることがわかる。執行部に少しでも逆らえば、絶対に名簿には登載されないし、順位も上にはいかない。全議員を指導部の絶対的権限下に置きたいと思っている共産党指導部が、拘束名簿式にこだわるのも当然である。
だが、いくら政党選択といっても、実際に当選し、議員活動するのは、個々の人間である。有権者は顔の見える選挙を欲している。執行部のイエスマンでしかなく、ただ党の方針を機械的に繰り返すだけの官僚的議員に、人々は魅力をおぼえない。そして、ここまで政党不信が強まっている中で、政党選択中心の選挙だけを唯一絶対の基準にしようとするのでは、有権者の支持を得られないだろう。長野知事選での田中康夫氏の大勝利と、衆院補選での川田悦子氏の勝利は、有権者の政党不信をあからさまに示している。こうした中で、政党不信とわれわれとは無縁という態度をとり、機械的に政党選択中心主義に固執するわが党の態度は、逆に、個人中心と称して小選挙区制を拡大する口実を支配階級に与える可能性さえある。
共産党としても、非民主的にならない形で個人選挙の要素を加味した比例代表制度を対案として構想すべきではないだろうか?
この個人の要素に関して、決議案は、選挙区選挙に関して、この政党選択を土台にした上で発展させるべきだと主張している。
選挙区選挙でも、「政党選択を土台に」という方針をつらぬくことが基本である。その土台のうえに、候補者の魅力、個性を大切にし、それをおおいに引き出す。候補者は、党の方針をふまえながら、自分の言葉で、自由闊達に党を語ることが大切である。党が、有権者からみて、「個性豊かな政党」と評価されるような成長がもとめられている。それが党の魅力、値打ちをいっそう光らせることにもなる。
比例代表選挙でも「候補者の魅力」は重要なはずだが、ここでは、「候補者の魅力」はただ、選挙区選挙との関係でのみ語られている。また、「個性豊かな政党」と有権者から評価されるためには、今回の規約改定案におけるような、ますます党員個人の意見表明や権利を制限し禁止する方向性は転換されなければならない。何か批判めいたことを言っただけで調査の対象にされ、党内で冷ややかに見られるような状況を許し助長しながら、「自分の言葉で」語る候補者や「個性豊かな政党」をはぐくむことなどできないだろう。
第6章は党建設論である。決議案は、「日本社会は、新しい政治をもとめている。日本の民主的改革の客観的な条件は、熟している」と誤った楽観論を振りまきつつ、足りないのは主体的力量であると叱咤している。
しかし、その主体的な条件は、熟しているとはいえない。わが党が「日本改革」の提案としてしめしている民主的改革の内容は、多くの人々の共感を広げているが、国民全体のなかではまだ少数派にとどまっている。これをいかに多数派にしていくか。そのかなめになるのが、強大な日本共産党の建設である。
客観的情勢は成熟しているが、主体的力量だけが足りないのだ、この言葉をいったいこれまで何度聞いたことだろう。宮本議長が健在であったときからわれわれ党員はこの言葉を聞かされ、その言葉にもとづいて拡大に駆り立てられてきた。だがそれは、ただ党員の疲弊と大衆運動の形骸化を生んだだけだった。しかし、その反省もなく、決議案はあいかわらず、客観的情勢の成熟と主体的力量の遅れを唱えている。
主体的力量が後退していることは、われわれ自身がすでに何度となく指摘してきたことである。とりわけ、この決議案も認めているように、青年・学生分野の大幅な後退と空白化、党員の高齢化が急激に進んでいる。実際、党は危機的状況である。だがそれは、客観的情勢の成熟にもかかわらず生じているのではなく、まさに政治意識の保守化と社会の高度消費社会化、そして日本国家の帝国主義化を背景にして生じているのである。
党指導部は、これまで宮本指導下で長期にわたってとってきた「機関紙拡大と党勢拡大の2つの柱」論を、珍しく率直に「これは正確ではなかった」と総括し、基本的な柱は党員拡大であると述べている。それ自体は正しい認識である。もっとも、その点に関してもっと真剣な反省がほしいところだが。
「2つの柱」論は、党員の年齢構成がまだまだ若かった頃の「ぜいたく」にすぎない。党の力量を越えた赤旗拡大は、集金配達に全精力をそそがせる結果になり、大衆運動をはじめとするそれ以外の分野に力を割くことをいちじるしく困難にした。現在の党建設の焦点は、たしかに、党員の拡大である。それは間違いない。だが、党指導部は、この困難な課題を、党の敷居を低くし、党としての原則を投げ捨て、保守意識に媚びることで解決しようとしている。今回の規約改定案は、党指導部の改良主義的変質の産物であるとともに、党勢の停滞に対する指導部の危機感の現われでもある。
決議案は、「党員拡大5ヵ年計画」を提唱し、2005年までに50万の党員を建設することを呼びかけている。われわれはきっぱりと断言する。これは許しがたい冒険主義である。現在の反動的情勢下において、50万の党を建設しようとするのは、党員を絶望的な党員拡大運動に駆り立てて疲弊させて、逆に党勢を縮小させる結果になるか、あるいは、徹底的に党のイデオロギー的水準を低めて、ぶよぶよの水ぶくれの党にしてしまうか、あるいは、誰もまじめにこの計画については考えず、単なる掛け声倒れで終わるかのいずれかであろう。最も可能性があるのは、この3つのパターンがからみ合った形で実現することであろう。すなわち、まじめな党員部分は真剣に計画に取り組んで疲弊し、大多数の党員はまじめに受けとらず、全体として、党勢が後退した上で、党の水準が下がる。
われわれは、5年以内に党員50万を達成するなどという無謀で実現不可能な計画を放棄し、もっと地に足のついた計画を立てるよう訴える。党勢が5年間で後退しなかったとすれば幸いだと思わなければならない。青年・学生、未組織労働者などを重点に、組合運動をはじめとする積極的な大衆運動を通じて真面目で戦闘的な大衆と結びつき、彼らを党に組織すること、党内の意見交流と真に意味のある討論を活性化させ、党員が上級機関の顔色をうかがうのではなく、本当に伸び伸びと意見を出しあい活動している状態にすることが、最低限必要である。