岐路に立つ日本共産党
 ――第22回党大会をふりかえって

2、不破報告と不破結語の検討

民主集中制の欺瞞

 不破報告における民主集中制についての説明はおそろしく貧困である。しかし、いくつかの点だけコメントしておきたい。

  民主集中制の5つの柱
 不破報告は、まず規約改定案で定式化された民主集中制の5つの柱を提示する。

「一、党の意思決定は、民主的な議論をつくし、最終的には多数決で決める。
 二、決定されたことは、みんなでその実行にあたる。行動の統一は、国民にたいする公党としての責任である。
 三、すべての指導機関は、選挙によってつくられる。
 四、党内に派閥・分派はつくらない。
 五、意見がちがうことによって、組織的な排除をおこなってはならない。」

 そしてこの5つの柱について不破報告は次のように述べている。

 これが新しい改定案にしめされた民主集中制の五つの柱であります。
 これについて「わかりやすくなった」という評価は全体に共通しています。「わかりやすくする」ということは、ものごとを大ざっぱにするということではないのです。ここに民主集中制の核心がまとめられているということが、大事な点であります。核心をわかりやすくまとめれば、そこをつかめば、いろんな場合にだれもが正しい応用ができるようになります。わかりやすくするということは、そういう意味をもっているということを、強調しておきたいのです。

 ずいぶん自信たっぷりな言い方である。「わかりやすい」だけでなく、真に科学的であると言いたいのであろう。だがはたしてそうか?
 この5つの柱のうち、特異なものは4番目の「党内に派閥・分派はつくらない」だけであり、それ以外のものはたしかに、ほとんどの統一的組織に共通している項目であるように見える。そして実際、不破委員長は、この5つの柱は「近代的な統一政党として必要なこと」であると説明している。しかし、ここでただちに次のような疑問が生じる。もし本当にこの5つの柱が「近代的な統一政党に必要なこと」であり、ごく普通の事柄であるなら、なぜそれをあえて「民主集中制」という言葉で呼ぶのか、である。実際、別刷り『学習党活動版』には、この5つの柱を「民主集中制」と呼ぶことに異議を唱える意見がいくつも見られた。それに対して、不破報告はこう説明している。

 もう一つは“内容は良いが、前衛政党という言葉もやめたのだから、民主集中制もやめてはどうか”という種類の意見であります。しかし、「前衛党」という言葉とは違って、「民主集中制」という言葉そのものには、誤解させる要素はないのです。「民主」というのは党内民主主義をあらわします。「集中」というのは統一した党の力を集めることをさします。これはどちらも近代的な統一政党として必要なことであります。

 しかし、4つめの柱を除けばたいていの組織に大雑把に共通する原則をあえて「民主集中制」と呼ぶ理由については、やはり何も示されていない。「民主主義」そのものに「集中」の要素がある。多数決で決定し、その決定をみんなで実行することは、通常のブルジョア民主主義の範囲である。とすれば、単に「民主制」と呼ばず、「民主集中制」と呼ぶためには、特別に「集中」の要素がどこにあるのかを提示しなければならない。一般の民主主義にあてはまらない「集中」の要素は、1から5までのうちどれなのか、それを示してはじめて、「民主集中制」と呼びつづけることが正当化される。それは何なのか? だが不破氏は「『民主』というのは党内民主主義をあらわします。『集中』というのは統一した党の力を集めることをさします」という同義反復的説明をするのみである。
 民主集中制はかつては、民主主義的中央集権制と呼ばれていた。実際、党の規約は、1958年の第7回大会の制定以来ずっと、党の組織原則を民主主義的中央集権制と規定してきた。1994年の第20回党大会になってはじめて、「民主集中制(民主主義的中央集権制)」というように記述されるようになった。そして今回の全面改定で、「民主主義的中央集権制」という言葉が完全に消えた。しかし、「民主集中制」が「民主主義的中央集権制」の言いかえにすぎないという立場自体は、公式には変更されていない。つまり、「民主集中制」とは「民主主義的中央集権制」のことである。そして、「民主主義的中央集権制」という用語を見ればわかるように、「民主主義」は単に形容詞にすぎず、「中央集権制」が主体である。つまり、共産党の組織原則は、基本的には「中央集権制」なのである。そして中央集権制とは、書いて字のごとく、中央に権限と権力が集中する制度である。そして民主集中制の「集中」も、「中央に権力と権限が集中する」という意味なのである。不破報告が言うような「統一した党の力を集めること」などというごまかしの説明とはおよそ異質の原理を意味している。ここでも、不破氏の説明は、ごまかしと欺瞞に終始している。

  「わかりやすさ」に潜む権力の集中
 われわれは上で、「この5つの柱のうち、特異なものは4番目の『党内に派閥・分派はつくらない』だけであり、それ以外のものはたしかに、ほとんどの統一的組織に共通している項目であるように見える」と書いた。「見える」と記したのは、理由があってのことである。実は、この5つの柱の「わかりやすさ」には、4番目の項目以外にも危険な要素が内包されているのである。
 どういうことか説明しよう。10人とか20人とかいった規模のサークルの場合、「みんなで討論し、多数決で決定し、決まったことはみんなで実行し、代表は選挙で選び、意見の違いで組織的排除をしない」という取り決めで十分、民主主義は守られるだろう。この程度の規模の組織なら、派閥も問題になりえないだろうから、4番目の項目があってもとくに問題はないだろう。つまり、新規約が示す民主集中制の「わかりやすさ」は、まさにそうした小規模のサークル的存在にのみ妥当するものなのである。
 だが共産党は、そうした小規模のサークルではない。それは38万人もの人員を有する巨大組織である。組織が一定の規模になれば、必然的に、内部に階層が生まれる。数十人の規模になればすでに、代表を選ぶだけではなく、執行委員会のようなものを選ぶ必要性が出てくる。それが、500人、1000人といった規模になれば、今度は、中間機関をつくる必要が出てくる。数千人規模になれば今度は、複数の段階の中間機関をつくる必要が出てくる。こうして、組織規模が大きくなればなるほど、組織は階層的になり、末端のメンバーとトップに近いメンバーとの間には、権限と権力の巨大な格差が生じる。数十人規模の組織の場合にはまったく問題なかった「わかりやすい」原則が、それだけではいささかも内部民主主義を保障しない「絵に描いた餅」に転化する(量質転換!)。
 共産党においては、この組織上のヒエラルキーは、それこそバベルの塔なみの巨大なものになっている。常任幹部会―幹部会―中央委員会―都道府県常任委員会―都道府県委員会―地区常任委員会―地区委員会―支部委員会―一般党員。このように、末端の一般党員と常任幹部会との間には7つもの中間段階が存在する。「多数決で決める」と言うが、雲の上の「常任幹部会」での多数決は、もはや一般党員にとってまったく統制不能なものとなる。
 このような巨大化した組織において「民主主義」を保障するということは、「みんなで討論」とか、「多数決で決定」とか、「みんなで実行」、「指導機関は選挙で選ぶ」といったサークル的原則ではまったく手に負えないのである。このような巨大化した組織においては、中央および上級の権力や権限を制限し、末端の党員と下級組織の権利を実質的に保障する具体的で複合的な諸制度が原則化されなければならない。
 そしてその点に関して、今回の新規約はまったくといっていいほど、末端の党員と下級組織の権利を保障する実質的な制度的改善は導入されなかった。それどころか反対に、旧規約ではかろうじて存在した多くの権利が削除された。かくして、民主集中制の5つの柱は、このような実質的な権力集中をごまかすための煙幕でしかない。その中で唯一、実質的意味を持っているのは、「分派・派閥をつくらない」というスターリン主義的原則のみである。

  全党的な討論はつくされたか
   最後に、共産党の大会の開き方を自画自賛した部分について批判しておこう。その中で不破氏は次のように述べている。

 私たちの党の場合、党大会というのは、民主主義のうえでも全党的な統一のうえでも、かなめをなす大事なものであります。だから私たちは、今回の党大会でも、大会の議案を発表してから大会を開くまでに二カ月間にわたる全党的な討論をおこないました。すべての支部、すべての地区委員会、すべての都道府県の委員会が党会議を開いて討論をつくしました。そしてまた、「しんぶん赤旗」の特集号を四回五号にわたって発行し、党会議では多数にならず、大きな流れのなかではあらわれてこない少数意見もふくめて、三百四十九通の個人意見を発表しました。このように、あらゆる手だてでの討論をつくすものであります。大会自体も、きょうから五日間の予定で開き、そこで大会としての討論をつくして党の意思を決定します。つまり、民主集中制の党としていちばん大事な、党大会での意思統一をおこなうためには、それだけの全党的な討論をつくすのが私たちのやり方であります。

 よくもこのような自画自賛ができたものだ。6中総では「規約の一部改定」と議題提示しておきながら、規約の全面改訂を行なったことは明らかに規約違反であるし、しかも、規約の全面改訂であるにもかかわらず、たった2ヶ月の討論期間しか認めていない。さらに、以前は3000字書けた意見も2000字に減らされた。その意見を書ける期間はたったの1ヵ月半であった。大会での討論も、一人を除く全員が活動報告と決議案賛美に終始していた。これのどこが「あらゆる手だてでの討論をつくす」といったものなのか?
 しかも、不破氏は「党会議では多数にならず、大きな流れのなかではあらわれてこない少数意見」などと言っている。この発言がいかに民主主義を蹂躙するものかまったく理解していないようだ。不破氏は、「党会議で多数」にならないかぎり、つまり、51%以上の支持を得ないかぎり、「大きな流れのなかではあらわれてこな」いものだと決めつけている。それもそのはずである。たとえ49%の支持を得ている意見でも、わが党の選挙制度(推薦制をともなう多段階の大選挙区完全連記制)のもとでは、党大会に「あらわれてこない」ことになっているからである。日本共産党は国政選挙ではせいぜい1割前後の得票を得ているにすぎない。日本の国政選挙の仕組みが、共産党内部の選挙の仕組みと同じだったなら、共産党は永遠に議席を取ることはないだろうし、その意見は永遠に「大きな流れのなかではあらわれてこな」いだろう。
 不破氏が共産党の民主主義を示すものとして言及している「少数意見の発表」なるものは、実際には、党内の選挙制度が反動的すぎて、本来は大会で公然と表明されるべき有力な意見がまったく大会に現われないことの裏返しにすぎない。
 この点は他の党と比べても明らかである。旧社会党も社民党も、大会では、執行部に対する厳しい批判が次々と表明され、その批判意見の一つ一つに執行部は大会の場で答えている。ただ単に執行部の方針を誉めるためだけに発言する発言者など一人もいない。討論とは名ばかりで、単なる活動報告会と化しているわが党の「討論」もどきとは大違いである。わが党の大会においては、たった1名の批判意見(それもきわめて慎重なもの)でさえ画期的と言われ、たった1名の保留が42年ぶりなどと騒がれる始末である。これが民主主義だとでも言うのか? これが民主主義なら、北朝鮮は世界で最も民主主義的な国である。

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