以上のように述べたならば、では、共産党が掲げる「護憲」の旗と、そのような天皇制批判とはどのように両立するのか、という批判が必ず出てくる。同じく、共産党が綱領で天皇制の廃止(君主制の廃止)を掲げているのだから、「護憲」を言うのはおかしい、という批判もよく出される。以上の批判がともに的外れであることを、以下に述べる。
まず第1に、「護憲」というスローガンの歴史的意味は、基本的には、「9条護憲」を核心とする、憲法の民主主義的・平和主義的原則や条項を反動勢力から擁護するというものであった。どんな政治的スローガンも具体的な歴史的文脈の中で出され、具体的な歴史的意味を帯びている。そのような文脈と意味から切り離して、字面だけで裁断するのは一面的である。共産党がごく最近まで「護憲」というスローガンを拒否してきたのは、象徴天皇制を定めた第1章も擁護しているとみなされることを避けるためであったという理由もあるが、より本質的には、共産党が一貫して「中立自衛」政策を掲げ、将来における武装の可能性を否定していなかったからである。したがって、「護憲」というスローガンと、天皇制批判の立場とは十分に両立する。
もちろん、昨今、共産党指導部が「護憲」や「憲法の全面的擁護」をさかんに言い出した背景には、憲法9条の将来にわたる擁護という第20回党大会における方針転換があっただけでなく、象徴天皇制をも事実上容認しようとする98年以来の右傾化の流れも存在する。「護憲」の字面から受ける印象を逆に利用することで、天皇制との共存、迎合を模索しているのである。したがって、その意味で、共産党が主張する「護憲」のスローガンの欺瞞性を批判することはまったく正当である。
第2に、より実質的、本質的な意味でも、真の意味での「護憲」論と天皇制批判とは両立する。すでに、過去の『さざ波通信』で展開されているように、現在の日本国憲法は、他の敗戦国の戦後憲法と異なる2つの特殊性を持っている。憲法9条と象徴天皇制がそれである。しかし、この2つの特殊性と、憲法体系全体との関係は対照的である。憲法9条は、憲法体系のその他の民主主義的性格と密接不可分である。平時の法体系と戦時の法体系を根本的に区別する一般のブルジョア民主主義国家の憲法と違って、憲法9条を持つ日本国憲法はそのようなダブルスタンダードを認めない。そのために、日本国憲法は、他の国の憲法にはない民主主義的一貫性を持っている(こう言ったからといって、日本国憲法が現代民主主義の観点からして100点満点ということではない)。それに対し、象徴天皇制を定めた憲法第1章は、憲法体系全体といちじるしく矛盾している。それは、憲法の残りの部分と有機的な連関を何ら持っておらず、アメリカ当局とGHQの政治的思惑によって無理やり憲法にねじ込まれた異質物である。それは、憲法の民主主義的体系性を制約し、それを一貫して脅かしている。言ってみれば、健康な肉体の中に外部から注入されたガン細胞のようなもの、あるいは、心臓部に打ち込まれた錆びた金属片のようなものである。
憲法の第1条は、天皇の地位にある一自然人を、国民主権という社会的原理の「象徴」とみなしている。これは、それ自体が形容矛盾であり、丸い四角のような規定である。国民主権とは何よりも、自らの代表者であれ、象徴であれ、それを自分たちの民主主義的手続きにのっとって選出することを意味する。だが、天皇制は、そのような手段で選ぶことができないようになっている。それは100%血統にもとづいている(もし天皇を選挙で選べば、それは一種の大統領職になる)。憲法は、天皇の地位が「国民の総意にもとづいている」というが、その「総意」を確かめる手段は何一つない。民主主義の原理においては、そのような「国民の総意」は、民主主義的に組織された選挙ないし投票にもとづいている。しかし、血統にもとづく天皇制は、「国民の総意」なるものを、最初から問題にできないように仕組まれている。
したがって、真の「護憲」論にもとづくなら、憲法の中の異質原理、民主主義に根本的に反する制度たる象徴天皇制を、憲法から取り除かなければならない。さもないと、このガン細胞はますます増殖し、肉体そのものを破壊するだろう。
もちろん、現在の力関係からして、それをただちに行なうことはできない。そんなことは百も承知である。だが、将来における廃止を勝ちとるためには、今から天皇制に対する原則的な批判を展開し、民衆意識を喚起しておかなければならない。現在のヒステリックな天皇賛美の状況に押し流されることなく、あらゆる機会をとらえて、天皇制の問題性を指摘し、それを美化しようとするあらゆる動きに厳しく反対しなければならない。この点で、現在の共産党指導部の路線は、将来における天皇制廃止の世論の成熟を準備するどころか、その永遠化に手を貸しているのである。