天皇制度の政治的・反動的機能については、ここであえて脇においたとしても、天皇制度の根本原理である「血統主義」(およびその付随原理としての「男性主義」)それ自体からして、天皇家、とりわけ長男夫婦における妊娠と出産は「めでたいこと」ではない、と言わざるをえない。
すでに述べたように、現在、女性と子どもを取り巻く状況は、いかなる意味でも、「めでたい」ものではない。しかし、それをおいておいたとしても、少なくとも「めでたい」と言えるためには、妊娠と出産が女性の自由意志にもとづくのでなければならない。女性の自由意志にもとづかない「妊娠」と「出産」は、強制妊娠、強制出産である。それがめでたいなら、強制妊娠、強制出産の前提たる強制セックスもめでたいと言わなければならないだろう。
さて、雅子の妊娠は、彼女の自由意志にもとづくものだろうか? どんな天皇主義者も、「そうだ」などと自信を持って言えないだろう。そもそも、結婚そのものが、雅子の自由意志ではなかった。彼女は、何度も断りながら、周囲のおそるべき圧力、高級官僚たる自分の父親に対する圧力に負けて、天皇家の「長男の嫁」になったのである。彼女に選択肢などあったのか? 天皇家の存続そのものが自分の決断にかかっているという圧力のもとで、彼女は、自分のきわめて高いキャリアを捨てざるをえなかったのである。自分の女性としての、人間としての能力を十分に生かせる職業を捨て、天皇家の後継ぎを生むという「出産ロボット」になることを余儀なくされたのである。
結婚そのものが強制的であったとすれば、その後に続く事態もまた強制的なものである。セックスも、妊娠も、これからやってくる出産もすべて強制的なものである。それを「めでたい」と言うことができるためには、女性の権利、人間の尊厳に関して、徹底的に鈍感でなければならない。
このように言えば、女性は多かれ少なかれ子どもを産むことを社会的に強制されているし、あるいは、血統を重視する職業は他にもあるので(歌舞伎の世界など)、雅子だけを特別扱いする必要はない、と言う人もいるだろう。それに対しては、私たちは、2つの反論を行なう。
まず第1に、一般社会であれ、歌舞伎であれ、女性に妊娠と出産を強制することは許されない。それが事実上認められているということは、この社会の欠陥を意味しているのであって、そのことをもって雅子の強制妊娠を正当化したり、大目に見ることは許されない。
第2に、一女性の妊娠に対する社会的・政治的圧力は、天皇家の「長男の嫁」の場合、一般社会の「長男の嫁」や、歌舞伎の世界の「長男の嫁」に対する圧力と比べものにならないぐらい巨大である。なぜなら、一般社会や歌舞伎の世界においては、その圧力の範囲はせいぜい、親戚やその世界だけであるが、天皇家の場合は、全国家的だからである。反動勢力、保守勢力、支配勢力にとっては、いかなる犠牲を払っても天皇家を存続させなければならない。そのような決意のもとで行使される圧力は、一般家庭の比ではない。この間の妊娠騒動のすさまじさは、雅子に加えられていた政治的・社会的圧力がいかに巨大ですさまじいものであったかを逆から証明している。この「祝福」の列に参加することは、事後的にであれ、雅子に対し子産みを強制する政治的・社会的圧力に参加することを意味する。(ちなみに、「皇太后」の死に哀悼の意を表することもまったく同じ意味を持っている。それは、「皇太后」が天皇制の犠牲とされたことを告発するものではまったくなく、その反対に、この天皇制度が第2、第3の「皇太后」を生むことを容認し、それに手を貸す行為なのである)。
血統主義とその究極的表現たる「万世一系」を根本原理とする天皇制度は、その制度の中に不可欠の要素として、強制セックスと強制妊娠と強制出産を組み込んでいる。万世一系の天皇制度とは、まさに、何千、何万という女性たちの犠牲、彼女たちの言葉にならない呪詛、聞かれなかった悲鳴を体現している。そして、言うまでもなく、その裏腹の関係として、近代天皇制における、数々の侵略戦争と国家弾圧、従軍慰安婦制度と大規模な殺戮と強姦を天皇制は体現している。天皇制は、その頭のてっぺんからその足の先まで、血と汚物とをしたたらせているのである。
ある意味で、天皇制度と従軍慰安婦制度とは、近代日本の2つの極点――頂点と最底辺――である。一方の頂点おいては、賛美され崇められさまざまな特権を与えられながらも徹底した「子産みの道具」とされた女性がおり、他方の最底辺においては、軽蔑されぼろクズのように扱われて戦場で徹底した「セックスの道具」とされた無数の女性たちがいる。この2つの極点における女性たちの存在そのものが、まったく正反対の方向からであるが、血ぬられた近代日本を鋭く告発している。一方の極点に賛辞を呈することは、他方の極点をも美化することに手を貸すことを意味する。雅子の妊娠に対する賞賛の声に唱和することは、従軍慰安婦とされた女性たちの尊厳をも踏みにじることなのである。
以上の観点に立つなら、皇室典範を改変して、男性のみならず女性も天皇になりうるようにしたとしても、天皇制の本質的性差別性、反民主主義性をいささかも緩和することにならないことがわかる。強制妊娠と強制出産を制度的に構造化している天皇制そのものが女性の尊厳や権利と真っ向から矛盾するのである。一部のフェミニストの中には、皇室典範を改正して、女帝が可能になるようにすることを支持する動きもあるが、それはまったくもってナンセンスである。したがってまた、進歩的天皇制なるものもありえないことがわかる。天皇制は(一般に君主制はすべて)、その本質そのものからして、民主主義と両立しない。
国会に議席を持つ政党の中で、日本共産党綱領は、君主制の廃止を明確に掲げている唯一の綱領である。この事実は、日本のブルジョア政党や社会民主主義政党が、共和制すら実現させる勇気を持っていないこと、それらの政党はすべて、民主主義の観点からしてすでに完全に失格であること、ただ共産主義政党だけが民主主義の最良の伝統を受け継ぎうる存在であることを物語っている。このことに全党員は誇りを持つべきだろう。