社会民主党の機関紙『社会新報』の1月15日号は、非常に興味深い「主張」を掲載している。それは、小泉「構造改革」の本質を新自由主義的改革であるとみなし、それとの対決姿勢を鮮明に示している。
まずは、その主張の全文を以下に引用しておこう。
「改革断行」を叫ぶ小泉政権の下、国民生活の基盤が脅かされようとしている。改革の中身を吟味しない「改革派」対「抵抗勢力」図式の中で政治戦略を描くことには多くの問題がある。
「構造改革」をめぐる力学についてマスメディアで論じられるのは、おおむね以下のような三項図式だ。自民党内抵抗勢力。小泉内閣。そして「小泉内閣では真の改革はできない」として構造改革の推進を争点、あるいは分岐点とした総選挙勝利、もしくは政界再編の展望を開こうとする野党(民主党、自由党)。この構図では、この改革の中身が何なのか、「痛み」を受けるのはだれであり「報われる」のはだれなのかという問題(そして社民党をはじめ、そう問題提起する勢力の主張)は、往々にして軽視される。
構造改革の基調は新自由主義(ネオリベラリズム)である。それではあまりに本質論的に過ぎるというなら、こう言ってもいい。改革の「痛み」を受ける者と「報われる」者とは異なるし、この両者の格差はどんどん拡大する。構造改革が、政治構造の再編と結びつかざるを得ないのは、これが必然的に政党支持基盤を流動化させるからだ。
「財政構造改革」を掲げた橋本政権は98年の参院選で敗北し、自民党は積極財政路線に転換したものの、政官業癒着批判の中で行き詰まった。「自民党では改革できない」とする主張と、これに対し「自民党を壊してでも改革を断行する」と叫んで昨年の参院選を突破した小泉首相の手法は、それぞれこの経過を教訓としたものだ。
この総括において改革の全体像は(かなり意図的に)語られていない。しかし、新自由主義的改革は体系性を持っており、特定の政策分野に局限して、その「進捗」について断定すべきではない。財政構造改革が一直線に進まなかったのは、パターナリスティック(温情主義)で利益誘導型の従来型自民党政治にとって財政出動が決定的な意味を持っているためだ。つまり、構造改革を全面的に担い得る「新自由主義党」確立の模索こそが90年代の政治過程を貫く特徴であり、このプロセスは今も続いていると言える。
「バラまきの権化」視された小渕政権下の経済戦略会議は99年2月、規制緩和を基軸に税制、教育、労働、司法、金融など多方面にわたる新自由主義的改革を提起した。放漫財政の一方では、雇用流動化、銀行・企業再編と淘汰、法人税引き下げ、所得税率フラット(平準)化と投資家優遇等々、多くの新自由主義政策が実行されてきたことを見過ごすことはできない。
今後本格化すると思われる労働の規制緩和にしても、これが収益性・株価重視の企業経営への転換と一体であることを押さえれば、政府の言う「多様な働き方」の選択権は企業にあり、「雇用拡大」も解雇規制が緩和された状態を前提とした場合、景気次第では結果として「増える」という程度のものであることを見誤ることはないだろう。
また、構造改革の進展は、従来の企業社会的統合や、政党による利害の組織化の機能低下をもたらす。小泉首相の政治手法のみならず、現代の改憲ナショナリズムの戦略が、新自由主義的改革の結果としての社会的流動化をにらんだものであることに、社民党は「護憲の党」として注意を怠ることはできない。
以上の主張は、いくつかの非常に重要な認識を示している。
まず第1に、小泉政権の「構造改革」路線を、旧来の利益政治的な自民党政治の延長とみなさず、それを右から、より正確に言えば「新自由主義的」な方向から改革するものであるという、きわめて正確な状況把握を行なっていることである。これは、われわれからすれば常識の部類に入るが、しかし、われわれの党である日本共産党は、いまだに、小泉政権を旧来の自民党政治の延長とみなしている。
第2に、こうした状況把握にもとづいて、「新自由主義的改革は体系性を持っており、特定の政策分野に局限して、その『進捗』について断定すべきではない」と正しく論じていることである。市民派の学者やジャーナリストの中には、小泉改革を部分ごとに分けて、官僚支配の打破や道路特定財源の一般化などを支持する人々も少なからず存在する。このような腑分け論は、まさにこの新自由主義改革の「体系性」を無視するものであり、事実上、新自由主義的改革を推進する役割しか果たさない。
第3に、小渕政権を単純に旧来型政権として一面化せず、この政権下でも新自由主義的改革が着々と進んできたことを正しく指摘していることである。小渕・森政権は、一方では、財政出動を積極的に行なって景気対策を第一義的課題とする一方、抵抗の弱い部分、あるいは攻撃しやすい部分から確実に新自由主義的改革を行なっていた。この両面を見ることなしには橋本政権と小泉政権とのつなぎ政権であった小渕・森政権の性格を正しく見ることはできない。
第4に、新自由主義政策のもとで日本社会の階層化が確実に進むことを的確に述べていることである。この「階層社会」的把握は、日本共産党においては非常に弱く、わが党はいまだに「国民」の一枚岩的性格という擬制に固執し、国民政党たらんとしている。このような「国民主義的傾向」が同党の右傾化の主要な源泉の一つであることは、すでに繰り返し述べてきたところである。
第5に、収益性・株価重視の企業経営が労働者に及ぼす害悪を正しく認識し、「多様な働き方」なるものが実際には、企業にとっての「多様性」にすぎず、労働者にとっては不安定雇用の押しつけにすぎないことに警鐘を鳴らしていることである。
第6に、小泉政権下で進む新自由主義的改革が、これまでの「企業社会的統合」や政党による利害の組織化の機能を著しく低下させ、社会を不安定化させること、そしてその裏腹の関係として、小泉政治のポピュリズム的手法や改憲ナショナリズムが登場してきていることも正しく指摘している。改憲ナショナリズム路線は、一方では、日本の大国化とアメリカの要請に呼応した帝国主義的路線であるが、他方では、新自由主義改革による社会の不安定化、階層化、旧来の統合装置の機能低下といった内政上の問題に呼応したものでもある。それは、よりアメリカ型に近い垂直的な統合に近づけることで、中産階層以上の要求を吸収し、かつ、そうした垂直的な統合ですくい取れない部分(下層および周辺)に対しては、権威主義的な統治で押さえつけるとともに、ナショナリズムや排外主義の方向で不満をそらそうとする。
以上の点から明らかなように、この「主張」には渡辺治氏の理論的影響が濃厚である。日本共産党指導部は、渡辺理論を結局は拒否し、旧来型自民党政治の延長という認識に固執し、また「新自由主義」という用語を使うことも一貫して回避している。それに対して、『社会新報』の方がより大胆に渡辺理論の基本論点を取り入れたのである。
もちろん、この『社会新報』の「主張」と、社会民主党自身の行動とのあいだには深い矛盾がある。社会民主党の国会議員は、この「主張」で述べられているような路線に一貫して立った行動をまったくしていない。それはしばしば、まさに新自由主義的な法案に賛成してきたし、地方では今なお、民主党や自民党と手を結んでいる。また、国労問題に見られるように、闘う労働者を露骨に裏切ってきた事実を忘れることもできない。社会民主党は、実際の行動の面から見るなら、共産党よりもはるかに右である。
しかしながら、この「主張」で述べられた認識は重大な前進であり、心ある社会民主党員およびその支持者は、それをてこにして、社会民主党指導部・議員に対し、民主党に顔を向けるのではなく、共産党、新社会党、無党派革新層に顔を向けるよう訴えるべきである。そして、社会民主党指導部および議員たちがこれまで繰り返してきた裏切り行為を断固糾弾するべきであろう。
共産党指導部は、本来なら、このような方向に向けて社会民主党を転換させるための積極的なヘゲモニー戦略をとるべきであるが、現在の指導部にはそのような能力も発想もない。すべての共産党員は指導部を突き上げ、共産、社民、新社会、革新無党派の4者を中軸とした「護憲と革新の連合」の結成に向けて党指導部を動かすよう努力すべきであろう。