本書は、民主経営と呼ばれる経営組織内で活動していた著者が、自ら体験し、直面してきた諸問題をつづったものである。ここで語られる「民主経営」とは、運動に依拠して設立されてきた経営主体であり、設立の過程とその後の運営において、多数の日本共産党員が参画し、しばしば強力なイニシアティブを確立している特殊な経営体である。
これらの経営体は、資本主義社会における経営の継続という根本的制約をまぬがれることはできないが、社会的弱者の守り手であり、社会に対する批判者であり、生きた民主主義を実践する組織である。これまでに、多くの人々の共感を得て、社会的影響力を広げ、革新勢力の主要な陣地の一つとして成長してきた。とりわけ生協運動や、医療・社会福祉分野での運動は、さまざまな草の根活動が結実するなかで、めざましい前進をとげてきた。
しかし近年、新たな問題として浮上してきているのは、これら民主経営組織においてさまざまな異常事態が発生してきていることである。金銭面・モラル面での不祥事、経営陣による上意下達の非民主的運営、職員の士気低下、等々である。しかも、その中心部分で日本共産党の党員がしばしば否定的な役割を果たし、場合によっては告発を受けるという事態も起こっている。
1997年に発覚した「大阪いずみ市民生協事件」では、特権的な党員幹部に、莫大な利益供与が行なわれてきたことが発覚した。トップダウンの絶対的な支配体制が、「善意の構成員」によって保持されてきた異常な姿も露呈された。1999年の「鹿児島事件」でも、日本労協連組織内において、党員幹部による際限のない腐敗・不正の実態が発覚した。さらに、福祉分野の拠点として知られている「ゆたか福祉会」では、職員処遇をめぐって告発を受け、和解後の現在も、民主主義の根幹を疑うような内部統制をすすめている様子がいくつかのホームページで伝えられている。
本書では、民医連加盟の病院組織(奈良県)で起こったできごとを告発している。介護保険という新しい保険制度の導入を背景に、医療福祉分野の営利主義化が進行し、民主経営と呼ばれる組織が、いかなる選択をいかなる手法をもって、いかに行動したのかが克明に記されている。
「時代に乗り遅れるな」という掛け声で、労働組合との事前協議をいっさい行なわず、形だけの認可基準をクリアさせた介護保険事業を次々と展開したり、差額診療のない医療をめざす民医連にありながら、保険診療に含まれる一部費用を「私費」診療として患者に請求するなど、事業方針の転換、理念の棚上げが、次々と進行していく。人権問題に関しても感覚の麻痺が進行し、患者の病名をアルファベットで病室入口に大きく貼り付けるというような通常考えられないような出来事が起こったり、生活実態を踏まえない形式的対応で事足れりとする空気が支配的になってくる。このような変質が、組織的にみれば、官僚主義によって補完されている。著者の一つ一つの記述は、地味である。しかし、その具体的な記述をみれば、これが「特殊な出来事」ではない、ということを感じ取ることができる。
「大阪いずみ市民生協事件」・「鹿児島事件」では、党員が告発者となり、支援者とともに内部の病巣を明らかにしていくという作業がすすめられてきた。しかし、本書で描かれているケースのように、多くの場合において、党員の大多数が無批判なイエスマンとして振る舞い、まともな意見を提示する人々を抑圧する方向で行動しようとする。目先のセクト的利害を優先させ、党員としての大志を見失うことそれ自体が、われわれの組織の重大な堕落として受け止める必要がある。
さらに、近年の指導部の右傾化路線の影響により、体制に迎合する体質が民主経営内においても急速に進行してきている。地域の運動に根ざしてきた組織が、あっという間に経営主義的偏重に陥り、日々語られてきた理念がいつのまにか後景に追いやられる。その無節操さ、不誠実さの体質は、わが党指導部の舵取りの姿とも重ねないわけにはいかない。
党の民主主義的な改革の作業は、わが党指導部の政治姿勢の問題だけでなく、具体的にわれわれが足場としているさまざまな組織の中でも求められている。新自由主義的な政策が拡大する現在において、公的制度に依拠する民主経営組織の多くが、本書と同様の事態に置かれているといっても過言ではないだろう。運動体としてもつべき展望を指し示しながら、民主的な合意形成をすすめていくことは、どの分野であっても重要な課題になっている。一面的で官僚主義的な変質の歯車となっていくのではなく、党員としてふさわしい行動基準をもって運動に参画していくという姿勢が、これまで以上に重要になってきているのではないだろうか。