1980年代以降の『80年史』の記述に特徴的なのは、党大会に関する記述が驚くほど短く簡略化されていることである。党大会のたびごとに、そこで提起された見解の理論的先駆性や実践的意義について誇ることを常としてきた共産党にとって、このあまりにもあっさりとしたそっけない記述は、奇妙な印象を与える。過去の党史においては、80年代以降の党大会に関する記述は、それ以前の党大会に関する記述にもまして詳細に紹介されていた。現在の党の路線に最も密接にかかわっているのは、昔の党大会よりも、より最近の党大会なのだから、最近の党大会についてそれなりの紙幅を割いて紹介することは、ごく自然なことである。
たとえば、第16回党大会直後に出された『60年史』は、第15回党大会に3頁、第16回党大会には、一番最近の大会ということもあって、7頁も割いている。『65年史』は、第15回党大会に3頁半、第16回党大会に6頁も割いている。『70年史』では、第15回党大会に4頁、第16回党大会にも4頁以上を割いている。また、いずれの党史においても、両大会の歴史的意義、そこで提起された新しい理論的立場の重要性などについて詳細に論じられている。しかし、『80年史』は、どちらの大会についても、5~7行しか割いておらず、それらの大会の歴史的意義についても、そこでの新しい理論的提起についても、ほとんど語られていない。両大会が開かれたことの事実紹介といった感じである。とくに顕著なのは、第16回党大会をめぐる記述である。
第16回党大会は、現存社会主義について、社会主義無謬論と社会主義完全変質論の二つの誤りを批判するという立場を強く押し出したことで有名である。たとえば、この大会の報告者であった不破哲三氏は、次のように述べている。
「社会主義諸大国の大国主義、覇権主義の誤りを問題にする場合、私たちは、科学的社会主義者として、つぎの2つの見地を原則的な誤りとしてしりぞけるものです。
一つは、社会主義大国が民族自決権の侵犯などの誤りをおかすことはありえないとする『社会主義無謬論』です。……
もう一つは、あれこれの社会主義大国が覇権主義の重大な誤りを犯しているということで、その国はもはや社会主義国ではなくなったとか、その存在は世界史の上でいかなる積極的な役割も果たさなくなったとかの結論をひきだす、いわゆる『社会主義完全変質論』です。16年前、宮本委員長を団長とするわが党代表団が、中国で毛沢東その他と会談したさい、ソ連の評価をめぐって、もっともするどい論争点の一つとなったのが、この問題でした。わが党は、社会主義大国の覇権主義にたいして、世界の共産主義運動のなかでも、これをもっともきびしく批判し、もっとも原則的にこれとたたかっている党の一つですが、その誤りがどんなに重大なものであっても、指導部の対外政策上などの誤りを理由に、その国家や社会が社会主義でなくなったとするのは、『社会主義無謬論』を裏返しにした、根本的な誤りです」(『前衛臨時増刊 日本共産党第16回大会特集』、92頁)。
これまでの党史でもこの点はきちんと紹介されていた。たとえば、『60年史』は次のように述べている。
「大会は、社会主義大国が民族自決権の侵犯などの誤りをおかすことはありえないとする「社会主義無謬論」と、指導部の対外政策上などの誤りを理由に、その国家や社会が社会主義でなくなったとする「社会主義完全変質論」の二つの誤りを批判し、いかなる社会主義国家でも、労働者階級と人民が存在し、科学的社会主義の大義と原則を擁護しようとする努力が基盤をうしなわないかぎり、あれこれの逸脱を克服して、人民の共感と支持のもとに発展的な前進をとげる展望と可能性をもっていることをあきらかにした」(『60年史』、497頁)。
この記述は『65年史』でもまったく同じである。『70年史』ではもっと充実しており、上の文章を掲載したあとにさらに次のような文章をつけ加えている。
「87年の第18回党大会であらためて確認されたように、社会主義の逸脱をただす復元力は、自動的に作用するものではなく、また復元力の作用する大前提がうしなわれれば、社会主義国の重大な変質にいたることを、第16回党大会の見地は予見していた。
当時、イタリア共産党は、「10月革命に始まった社会主義の発展のこの局面は、その推進力を使い果たした」とする清算主義にたって、ソ連の覇権主義、命令主義の体制の問題とロシア革命の道の破たんとを同一視し、結局、『第三の道』の探求という名で科学的社会主義の否定と社会民主主義への接近という危険をはらむ見地を表明していた。党は、このような見地に根本的批判をもっていた。その後のイタリア共産党の社会民主主義への転落は、日本共産党がもっていた危惧に根拠があったことを証明した」(『70年史』下、165頁)。
このように、『70年史』は、イタリア共産党の例も出して、第16回党大会が打ち出した「二つの誤り」に対する批判の理論的・歴史的意義を明らかにしていた。しかし、ソ連完全変質論を後知恵的に採用するに至った1994年の第20回党大会以降に執筆発表された『80年史』は、第16回党大会に関する記述を数行に縮めることで、この説明しにくい問題をあっさりと回避してしまった。念のため、『80年史』における第16回党大会記述を見てみよう。
「82年7月、党は、第16回党大会をひらきました。
大会は、国際的課題として核戦争阻止、核兵器全面禁止・廃絶のとりくみの強化をきめるとともに、臨調『行革』を批判し、軍事費と大企業奉仕の二つの聖域にメスを入れる財政構造の転換、国民本位の効率的な行政をめざす民主的行政改革、対米追従外交と手をきり非同盟・中立政策にもとづく自主的経済外交への転換などを提起しました。
あたらしい中央委員会は、議長に宮本顕治、委員長に不破哲三、書記局長に金子満広をえらびました」(『80年史』、237頁)。
たったこれだけである。国際的課題としては、核兵器の問題しか取り上げられておらず、肝心の社会主義論に関しては一言もない。
国内問題に関しても同じような問題がある。過去の党史では、日本資本主義が対米従属のもとで帝国主義的復活をとげつつある問題について、第16回党大会の重要な提起として詳しく紹介されていたが、この問題についても『80年史』では一言も語られていない。
都合の悪い歴史、あるいは現在の党路線と食い違うような理論的認識はことごとく党史から抹殺する、これが、著しく短縮された『80年史』の最も重要な役割であったことが、以上のことからしても明らかである。