都合の悪い理論的見解の抹殺という点では、この80年代前半期における併党論批判についても言える。
日本共産党は1984年に、「科学的社会主義の原則と一国一前衛党論」という長大論文を発表し、ソ連や中国の複数前衛党論(併党論)を厳しく批判するとともに、一国には一つの共産党だけが許される、それは労働者階級を指導するという前衛党の性格からして当然の科学的社会主義の原則であると主張した。
「一国一前衛党の立場こそが、科学的社会主義の創始者、先駆者たちの基本的、大局的な立場であった」。
「前衛党とは、階級全体の利益を代表し、そのたたかいを指導するからこそ前衛党なのである。マルクス、エンゲルスがあきらかにした見地は、これであった。一国に『複数』の前衛党を想定することは、階級をばらばらにし、プロレタリアートを自覚的な階級として結集することを不可能にし、結局階級全体を指導する前衛党の存在そのものを否定することになる」。
「レーニンの活動を歴史的にふりかえるならば、レーニンが、ロシアの革命闘争のはじめの段階から科学的社会主義の立場にたつ単一の党が労働者階級の解放闘争を指導するという一国一前衛党の見地を当然の原則として終始つらぬいたこと、この一国一党の内容的到違点が政治的、思想的にも組織的にも統一された「新しい型の党」であり、分派の存在を許さない民主集中の党であったことは明白である」(強調引用者、以下同じ)。
このような立場はもちろん、80年代になってからはじめて提唱されたものではなく、現綱領が確定された1960年代初頭以来のものである。たとえば、『アカハタ』の1964年8月2日号に掲載された「現代修正主義者の社会民主主義政党論」では、次のように述べられている。
「前衛党とは、そもそも労働者階級の前衛を単一の組織に結集しそれをつうじて階級全体を指導するからこそ前衛党なのである。したがって「複数」の前衛を想定することは、結局階級全体を指導する前衛党の存在そのものを否定することになる。この議論がマルクス・レーニン主義党の指導的役割が革命の勝利にとって不可欠の前提であることを否認する解党主義の議論であることは明瞭であろう」(『日本共産党重要論文集』第1巻下、246頁)。
文章を読み比べれば明らかなように、1984年の文章と1964年の文章が、内容のみならず表現もほとんど同じであることがわかる。1960年代以来の主張を改めて1980年代に語ることになったのは、ソ連などの干渉が結局失敗し、ソ連派の単一の前衛党をつくる試みが破綻したことをうけて、日本共産党ともソ連派の「党」ともどちらも対等に付き合おうとするソ連共産党のご都合主義的な路線を批判するためであった。
こうしたソ連のご都合主義を厳しく批判することはまったく正当であり、理論的にも実践的にも重要であった。問題はその批判を、「一国一前衛党」というドクマにもとづいて行なったことであった。ソ連のご都合主義や干渉主義を批判するのに、「一国一前衛党」論を持ち出す必要はいささかもなかった。とはいえ、ソ連式の併党論(他国の共産党に干渉して一部を分裂させ、もとの部分と分裂部分を対等に扱うやり方)を批判することは重要な意義を持っていた。
当時の最高指導者であった宮本顕治氏は、この複数前衛党批判を非常に重視しており、第19回党大会(1990年)の冒頭発言では、61年綱領確定の二つの意義の一つとして、この一国一前衛党論を挙げたほどである。
「綱領確定の意義を簡潔にふれるならば、一つは、当面の革命を人民の民主主義革命と規定したことであります。もう一つは、この間発生した複数前衛党論を拒否して、一国一前衛党の立場をあらためて明確にしたことであります」(『前衛臨時増刊 日本共産党第19回大会特集』、17頁)。
ここまでの高い位置づけは、宮本氏独特のものであろうが、いずれにせよ、一国一前衛党論は日本共産党にとって61年以来の根本的な原則の一つであったのであり、党の歴史から抹消することの絶対にできない基本的立脚点であったのである。だからこそ、この時期の併党論をめぐる論争は、過去の党史においてきちんと紹介されていた。『70年史』は次のように述べている。
「日本共産党は1984年にはいってから、共産主義運動のなかで一つの国に複数の前衛党が併存してもかまわないとする「併党」論がソ連や中国など社会主義大国を中心にあらわれてきた問題を一全協などで批判してきたが、7月、これを全面的に詳細に批判した「科学的社会主義の原則と一国一前衛党論――「併党」論を批判する」を発表した。
論文は、「併党」論がもともと一国一前衛党論の原則を前提としている各国共産党の自主独立、同権、内部問題不干渉という共産主義運動の原則を根底からくつがえす最悪の分裂主義、干渉主義の合理化論であると特徴づけ、「併党」論の有害な本質をあきらかにすることは、覇権主義、分裂主義から各国の革命運動の自主性を擁護し、世界の共産主義運動の正しい前進をかちとるうえで、きわめて重要な国際的意義をもつことを強調した」(『70年史』下、201~202頁)。
こうした記述は『80年史』では完全に抹消されている。上の引用が語るとおり「きわめて重要な国際的意義」をもつはずのこの「併党論批判」=「一国一前衛党論」が『80年史』で一言も触れられなくなったのはなぜだろうか? その理由はおそらく二つある。
一つは、前衛党という規定そのものが前回の第22回党大会で規約から削除されたからである。もっとも、自党の歴史を誠実に記述しようとするのなら、今は採用していない規定でも過去に採用していた事実を率直に紹介するべきであったろう。第二に、この「科学的社会主義の原則と一国一前衛党論」の中で、「労働者階級を指導してこそ前衛党」という「前衛党=指導する党」という思想があまりにもあからさまに、はっきりと語られていたからである。第22回党大会の規約改正に向けた7中総報告において、不破哲三氏は、「前衛党=指導する党」というのは誤解であると言い放った。この発言自体が、過去の歴史の歪曲以外の何ものでもないが(その点に関する批判として、『さざ波通信』の過去の論文を参照のこと)、その「歴史の歪曲」を読者の目から隠すためにも、「科学的社会主義の原則と一国一前衛党論」を党史から抹殺する必要があったのである。