しかしながら、この数年間、不破指導部は、わが党のこのような誇るべき戦闘的伝統を次々と踏みにじり、「天皇制との共存」を公然と主張し、恥ずべきことに、「皇太后」の死去の際にお悔やみの言葉を述べるとともに、国会での「弔詞」決議に結党以来はじめて賛成するという暴挙を行なった。さらには、皇太子一家に子どもが生まれたときには、喜びの言葉を述べるとともに、国会での「賀詞」決議にも賛成した。
これらの行為はすべて現行綱領に反する最悪の「規律違反行為」である。しかし、悲しいかな、わが党では、指導部の規律違反は誰にも批判されないし、けっして処分されることはない。それどころか、不破指導部は、自らの規律違反行為を正当化するために綱領の方を今や変えようとしているのである。このような行動は、憲法に違反した自衛隊を作って、のちにその自衛隊を正当化するために憲法を変えようとしている改憲派と何ら異ならない。
こうして綱領改定案は、戦後天皇制を君主制の一種であり、アメリカ帝国主義と日本独占資本の反動の道具とする現行綱領の規定を削除し、「形を変えて天皇制の存続を認めた天皇条項は、民主主義の徹底に逆行する弱点を残したものだったが、そこでも、天皇は『国政に関する権能を有しない』ことなどの制限条項が明記された」とのみ記すにとどめた。
不破はこの綱領改定案の趣旨を説明するために、これまでの党の解釈と根本的に異なる憲法解釈を持ち出してきた。それが、象徴天皇制は、国政に関する権能を持っていないので、君主制の一種ではないし、天皇は君主ではないという理論である。少し長くなるが該当部分を引用しよう。
「いまの綱領は、この天皇制について『ブルジョア君主制の一種』という規定づけをおこなっています。これは、戦前の絶対主義的天皇制が否定され、それとは違う性格のものに変わったという事実の指摘としては、一定の意味をもつものですが、しかし『君主制』と規定することには、“日本の主権の所在をどうみるか”という点では、誤解を残すものです。
改定案では、憲法の天皇条項をより分析的に扱いました。国家制度というものは、主権がどこにあるかということが、基本的な性格づけの基準であります。その点からいえば、主権在民の原則を明確にしている日本は、国家制度としては、君主制の国には属しません。せまい意味での天皇の性格づけとしても、天皇が君主だとはいえないわけであります。 実際、憲法第4条は、天皇の権能について、『天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない』ことを明記しています。前段にある「国事に関する行為」というのは、国家意思を左右するという力をふくまない「まったく形式的・儀礼的・栄誉的性質のもの」だというのが、憲法学者の一致した定説とされています(たとえば、『註解日本国憲法』法学協会)。天皇の行為はこういう性格の「国事」行為だけに限定されて、それ以外の、「国政に関する権能」はまったくもたない、というのですから、憲法は、天皇は、国の統治権にはかかわらないことを、厳格に定めているのです。
だいたい、国政に関する権能をもたない君主というものは、世界に存在しません。ですから、日本の天皇の地位は、立憲君主制という国ぐににおける君主の地位と、その根本の点で違いがあるのです。
立憲君主制というのは、形の上では国王が統治権を多かれ少なかれもっていて、それを、憲法やそれに準じる法律で制限し、事実上国民主権の枠のなかにはめこんでいる、という国家制度です。ですから、個々の国を調べてみると、統治権の一部が、国王の権限として残っている場合も、しばしばありますし、実質的には政府の行為なのだが、形の上では国王の行為として現れる、という場合も残っています。たとえば、イギリスでは、施政方針演説は、政府がつくりますが、議会で実際に演説をするのは、首相ではなくて、女王です。こういう形で、立憲君主制の国ぐにでは、国王の存在が、さまざまな形で、統治権と結びつくものとなっています。
ところが、日本の場合には、天皇には、統治権にかかわる権限、『国政に関する権能』をもたないことが、憲法に明記されています。ここには、いろいろな歴史的な事情から、天皇制が形を変えて存続したが、そのもとで、国民主権の原則を日本独特の形で政治制度に具体化した日本の憲法の特質があります。ここをしっかりつかむことが、非常に大事であります」※。
※注 ちなみに、不破哲三は実はすでに1959年の論文でほとんど同じようなことを語っている。不破は、現行憲法のもとで社会主義革命まで進むことが可能であると論じた「日本の憲法と革命」というきわめて重要な論文を『現代の理論』に発表しているが、その中で次のように述べている。
「日本の天皇の場合には、憲法上『国政に関する権能を有しない』(4条)ことがはっきりと規定され、その権能はただ『この憲法に定める国事に関する行為』つまり儀礼的・形式的事務をはたすだけに制限され、しかもそれさえ『内閣の助言と承認』のもとに内閣の責任においておこなう(3条)と規定されているのだから、国家機構の中で天皇の独自の政治的役割はまったくないも同然である。……したがって、天皇は君主でも元首でもなく、文字通り『象徴』にすぎないのだから、今の日本の国家形態を単純に立憲君主制とかブルジョア君主制とか言って特徴づけることは決して科学的な評価とはいえず、天皇制の比重を不当に過大評価して、実質的には共和制国家に近いその内容を見失うおそれがある」(不破哲三「日本の革命と憲法」、『現代の理論』第1号、1959年、22頁、強調はママ)。
これを読むとわかるように、7中総の不破報告はこの時の自分の立場にいわば先祖帰りしたものである。この戦後天皇制の評価をめぐっては、天皇制の直接的な犠牲者であった宮本と、そうではない不破とのあいだで根本的な対立があったのだが、不破は、党幹部に出世する過程で、この自分の独自理論を押入れの奥にしまい込んだ。だが宮本が政治的に引退し、自分の絶対的な指導力が確立されると、不破は44年ぶりに自分の理論を押入れの奥から取り出し、それを党綱領にまで高めようとしているわけである。不破の執念にはすさまじいものがあると言うべきだろう。
いずれにせよ、この時の不破の立場は明らかに天皇制の果たす反動的役割を過小評価するものであった。天皇の「独自の政治的役割はまったくないも同然」どころか、戦後社会の中で、重要な政治的事件ごとに天皇制は政治的動員され、「独自の政治的役割」を大いに果たしてきたからである。たしかに不破は、この文章についづいて「だからといって天皇制が果たす反動的役割も過小評価してはならない」として、その「イデオロギー支配の武器」としての役割にも言及しているが(同前、22~23頁)、渡辺治が言うように、「その『イデオロギー支配の武器』の中身は明らかにされ」ておらず、「全体としては、象徴天皇制は日本の変革にとっての政治的障害とはならないという側面が強調され」ている(渡辺治「日本帝国主義復活と天皇制分析の視角」、『日本の大国化とネオ・ナショナリズムの形成』、桜井書店、2001年、277頁)。
なおつけ加えておくと、現在の不破の立場は、1959年の不破の立場よりも「進化」している。なぜなら、1959年の論文でも不破は、象徴天皇制について「日本の君主制」と呼んでいるように、それが何らかの意味で君主制の一種であることを否定していないし、また日本の天皇制が「イデオロギー的には逆にもっともおくれた反動的形態をとっていること」について言及しているからである(前掲「日本の革命と憲法」、22~23頁)。1959年の時点でも不破の理論は天皇制の過小評価であったが、今日ではその過小評価はさらに進行し、天皇制の完全無害論にまで事実上いたっていると言えるだろう。44年という月日はどうやら無駄にすぎたわけではないようだ。
まずもって、この新理論は、日本共産党が戦後一貫して主張してきたこと、そしてその主張にもとづいて行動してきたことのいっさいを否定するものである。不破理論によるならば、日本共産党は戦後一貫して象徴天皇制を誤って君主制の一種と性格づけ、それにもとづいて、「君主制を残している国は世界ごくわずか、共和制は世界の流れ、こんな遺物を残している日本は異常だ」というまったく的外れなキャンペーンをさんざん繰り返してきたということになる。
ちなみに、このキャンペーンは不破自身によっても担われている。不破は、1994年の第20回党大会での「綱領一部改定についての報告」において次のようにはっきりと述べている。
「そういう展望にたって、世界史の流れを見るとき、君主制の廃止と民主共和国の実現が、文字どおり20世紀の人類の進歩のとうとうたる本流となっていることは、重要であります。実際、20世紀のはじめには、世界全体を見渡しても、まともな民主共和国は、スイス、フランス、アメリカの3ヵ国しか存在しませんでした。主だった国は圧倒的に君主制の国でした。君主制国家が世界の大多数をしめているというのが20世紀の出発点だったのです。それが、20世紀の90年代を迎えた今日、君主制と共和制がしめる世界的な比重は完全に逆転しました。国連加盟184ヵ国のうち、君主制の国家はわずか29ヵ国、国連に加盟していない君主制の国トンガをくわえても30ヵ国、あとは多少の色合いのちがいはあれ、すべて共和制の国家というのが、世界の現実であります。
日本が、憲法で主権在民の原則をうたいながら、君主制が残されている世界で数少ない国の一つになっていることの意味を、この民主主義の世界史的な流れのなかで見定めることは、今日きわめて重要な問題です。
わが党は、この問題の解決を今日の行動綱領の問題として提起してはいませんが、日本の民主主義の巨視的な長期的な展望としては、ここに一つの重大な問題があることを強調したいのであります」。
不破の新理論によれば、不破はここで、事実に反する虚偽の報告を大会の場で行なったことになる。そして、天皇制を君主制の一種として批判してきたわが党の無数の論文、演説、報告、新聞記事のいっさいが、事実に反する虚偽のものであったということになる。これほどの重大な転換が、この7中総報告ではわずか数十行の説明で片付けられてしまっているのである。