綱領改定案と日本共産党の歴史的転換(上)

8、戦後憲法と天皇条項(1)
――現行綱領の規定

 すでに述べたように、現行綱領は、戦後憲法がどのような政治的・社会的状況のもとでつくられたかを明らかにした上で、その積極面と限界とを次のようにきわめて明快に論じている。

 「世界の民主勢力と日本人民の圧力のもとに一連の『民主化』措置がとられたが、アメリカは、これをかれらの対日支配に必要な範囲にかぎり、民主主義革命を流産させようとした。現行憲法は、このような状況のもとでつくられたものであり、主権在民の立場にたった民主的平和的な条項をもつと同時に、天皇条項などの反動的なものを残している。天皇制は絶対主義的な性格を失ったが、ブルジョア君主制の一種として温存され、アメリカ帝国主義と日本独占資本の政治的思想的支配と軍国主義復活の道具とされた」。

 この一文は、61年綱領時点での文言と基本的に変わっていない(一部の文章の位置や順序などが変更になっている程度)。この文言を入れた理由について、61年綱領作成の中心となった当時の党書記長である宮本顕治は次のように述べている。

 「現行憲法の改悪反対、憲法に保障された平和的民主的条項の完全実施は、わが党が一貫してたたかってきた要求であり今後もたたかっていく課題であります。ここにこの新しい叙述をくわえたのは、戦後の民主革命の挫折という問題と現行憲法の関連を戦後の政治過程のなかで位置づけ、われわれがどういう意味で現行憲法を擁護し、同時に、どういう点では手をしばられるものではないということを明らかにするためであります。社会党などは、現行憲法を手ばなしに評価し、これを守り完全に実施していけば、なしくずし的に社会主義へいける、というような主張をしています。また、こうした方向にしたがって、安保共闘の再開の場合にも憲法擁護(護憲)が共闘の中心目標だといって、安保反対ないし破棄を目標からはずそうとする動きがありました。このような点から実践的にも重要な問題なのでくわえたわけです」(宮本顕治「綱領(草案)について」、『日本革命の展望』上、新日本新書、114~115頁)。

 ここではっきり述べられているように、わが党は革命党としてまったく当然なことに憲法を絶対化せず、その明確な限界を認識していた。現行綱領が象徴天皇制に対して下した評価は次の4つである。(1)アメリカ帝国主義の対日支配という目的のもとに戦後憲法に残されたものであること、(2)憲法それ自体は主権在民をうたい、天皇制は絶対主義的性格をうしなっていること、(3)ブルジョア君主制の一種であること、(4)アメリカ帝国主義と日本独占資本の政治的思想的支配と軍国主義復活の道具であること、である。
 その後の戦後史の流れを見れば、以上の規定は基本的な点できわめて正しかった。それは、戦後天皇制をめぐる二つの偏向のどちらにも陥っていなかった。第一の偏向は、戦後天皇制の形式的・憲法的位置づけを真に受けて、天皇制の持つ反動的役割を過小評価するものである。第二の偏向は、戦後の天皇制を過大評価し、あたかも天皇制こそが政治や社会における「諸悪の根源」であるかのようにみなす立場である(しばしば市民派左派の言説などに見ることができる)。
 現行綱領は、この二つの偏向と異なって、天皇制の反動的役割を正しく直視するとともに、それが基本的に「アメリカ帝国主義と日本独占資本の」「道具」であるとみなした。つまり、天皇制が主導的・主体的に反動政治を推進するのではなく、それは日本を支配する二つの基本的勢力の「道具」としての受動的な位置にあるとみなしたのである。
 これは基本的な点で正しかったし、客観的にも実践的にも有効的なものであったが、それと同時に、一定の限界も存在する。現行綱領は、天皇制が絶対主義的性格を失って「ブルジョア君主制の一種になった」とのみ述べ、それがどのような「一種」なのかについて何も述べていない。イギリスの立憲君主制もまた「ブルジョア君主制の一種」であるが、それとは異なる戦後天皇制の法的・政治的特殊性がどこにあるのかについて、何も述べていない。いわばそれはあまりにも一般論的にすぎるのである。その一般性ゆえに、一見逆説的なようだが、この綱領の天皇制論は、別の意味で天皇制の過大評価と過小評価に陥っている。
 まず戦後天皇制の過大評価の点だが、法的・形式的位置づけからして戦後の象徴天皇がイギリスの立憲君主よりもはるかに権限をもたない地位に引き下げられたという特殊性(後述するように、7中総の不破報告はこの点のみを取り上げている)について、現行綱領は何も述べていない。
 次に戦後天皇制の過小評価の面だが、戦後天皇制が、憲法の位置づけとしては、イギリスの君主制よりもはるかに形式的なものになったにもかかわらず、日本独占資本やその政府に対してなお強力な「相対的自立性」を保持し、それがもつ実質的な権威と権力がイギリスの君主よりもはるかに強力で反動的である事実についても、現行綱領は何も語っていない。戦後の天皇制は、主導的・主体的に反動政治を推進するのではないにせよ、支配階級の単なる受動的な「道具」にすぎないわけでもなかった。究極的には、あらゆる国家機構と同じく反動支配層の道具ではあるのだが、天皇制は、あるいは、天皇は、少なくとも日本独占資本に対してはかなりの「相対的自立性」を保持し続けたのである

 ※注 この二つの側面は基本的に相互前提関係である。天皇制が持つあまりにも強力なイデオロギー的・政治的な権威と権力ゆえに、天皇制を残す場合には、憲法上「国政に関する権能」をすべて剥奪するほどまでに形式化しなければならなかったからである。したがって、どちらか一方だけを取り上げて天皇制に関する結論を引き出そうとするならば、必然的に恣意的で、根本的に誤ったものにならざるをえない。

 この後者の側面がよりはっきりと目に見えるようになったのは、1980年代後半になってからである。天皇在位60年や天皇の代替わりなどの時期に見られた集団ヒステリー的な政治・社会状況は、たしかに一面では、主権在民を空洞化し、新たな反動的国家統合をめざす支配層の戦略の産物であったが、他面では、日本独占資本によっても十分に統御できないような激しさと広がりをもつにいたった。独占大企業のトップクラスの人間でさえ、天皇に対して何らかの批判的・中立的意見を言うことはできない社会的雰囲気が作り出された。
 このような「相対的自立性」は、まず第一に、戦前の絶対主義的天皇制から戦後の象徴天皇制への転換が、下からの人民の革命的闘争によって遂行されたのではなく、アメリカ占領軍と日本の旧支配層との政治的妥協と取引の結果として生じたことに起因している(国民意識の遅れ、天皇支持勢力の強力な残存など)。第二に、同じ事情から戦前の旧支配層の人脈が戦後も継続したことである。アメリカ占領軍による戦犯公職追放は中途で解除され、結局、旧支配層の生き残りの多くが戦後の支配層をも構成することになった。第三に、戦後の天皇制の「権力」が、直接的に国家権力によって支えられていないとしても、神社勢力、右翼反動勢力、右翼暴力団のテロという物質的力によって支えられていることである。
 以上のような側面は現行綱領において十分に配慮されていないし、当時の党中央の説明や報告の中でも論じられていない。しかし、1980年代後半に天皇礼賛キャンペーンが全社会的に広がった時期に、わが党の指導部はこうした側面にも十分注意を向けるようになった。
 この時期、わが党は、二つの面からイデオロギー闘争を行なった。まず第一に、天皇が憲法で「国政に関する権能を持たない」とされており、政府自民党がその限界を明らかに越えた形で天皇のさまざまな政治行為や行事を行なおうとしたことに対し、憲法の厳格な解釈にもとづいて、そうした策動の違憲性を徹底的に暴露したことである。第二に、天皇がいかに憲法上形式的なものとされ、それがいかに単なる「象徴」であるとしても、それが君主制の一種であるがゆえに、主権在民原則と根本的に相容れない性格をもっていること、この制度が国家と社会の反動化にきわめて大きな役割を果たしていること、したがって、天皇制そのものが廃止されなければならない反動的制度であることを全面的に明らかにしたことである。
 たとえば、『赤旗』は1988年7月27日から1989年1月8日まで、何と60回にわたって「天皇を洗う」というシリーズ連載を掲載し、その中で天皇制を全面的に批判している。また、この時期、党の多くの理論幹部が『前衛』などに長大な論文を書き、天皇制のそもそも論にまでさかのぼって、天皇制に対する舌鋒鋭い批判を展開し、現行綱領の規定の正しさを力説した。たとえば、1988年に共産党の中央宗教委員会責任者である日隈威徳は現行綱領における天皇制規定について、次のように述べている。

 「このように、天皇の地位はブルジョア君主制の一種であり、その役割は米帝と日本独占の道具となっている。そして、そこからくる天皇主義的な思想がある。それを克服し、それとたたかっていかなければいけないという、われわれの闘争の課題を綱領は提起している。そのうえで綱領は最後に、これは日本の社会の将来の展望、第4章で、民族民主統一戦線政府が革命の政府となっていく、その革命の政府は何をするか、それは『独立と民主主義の任務をなしとげ、独占資本の政治的経済的支配の復活を阻止し、君主制を廃止し、反動的国家機構を根本的に変革して人民共和国をつくり、名実ともに国会を国の最高機関とする人民の民主主義国家体制を確立する』とのべています。ですから、われわれは将来、人民共和国をつくるわけですから、そのときに君主制、天皇制などが残っていたらおかしな話になるわけです。君主を戴いた共和国なんてありえません
 ここで君主制といってなぜ天皇制といわないのか。厳密な意味では戦前の天皇制は変わってきているわけです。いまいったようにブルジョア君主制の一種、変わった形になっている。……しかし、こんにちの天皇制が今後どういうふうに変わろうとも、それは君主制にはかわりないわけですから、君主制を廃止するというのが、将来のわれわれの展望として掲げられたということでしょう」(共産党ブックレット13『天皇制の現在と皇太子』、日本共産党中央委員会出版局、1988年、18~19頁、強調は引用者)。

 当時、日隈はこのように語っていたのである。だが、今回の「天皇制は君主制にあらず」という新理論が発表された7中総において、日隈はどうやら自分の過去の発言をすっかり忘れ去り、この問題では何も発言しなかったようだ(宗教者との統一戦線について語りはしたが)。共産党幹部に思想的・政治的誠実さや首尾一貫性を求めるのは、自民党に政治倫理を求めるのと同じぐらいナンセンスなことなのだろう。最高幹部の言うことに合わせて自由自在に自分の意見を変えることのできる者だけが、幹部になれるのである。
 また、当時天皇問題について党を代表して多くの論文を発表していた和泉重行(当時、党中央委員会政治外交委員)は、『前衛』に掲載された「『代替わり』と天皇制の行方」の中で、次のように述べている。

 「何よりもはっきりさせておかなければならないことは、本来、天皇制は廃止されるべきものだということです。このことは、いささかもあいまいにしてはならない根本問題です。もちろん、『象徴天皇制』は憲法に定められた制度であって、憲法を改正することなしに廃止できないことはいうまでもありません。しかし、このことを“タブー”視するのは、歴史の進歩と社会発展をどう進めるかという課題に誠実な態度ではありません」(和泉重行「『代替わり』と天皇制の行方」、『前衛』1988年11月号、48頁、強調は引用者)。

 当時の和泉重行の多くの論文は、天皇制の問題が共産党にあってさえ曖昧にされようとしている今日、すべての党員によって改めて読まれるべきものである。政治的健忘症にかかっているすべての党員は、われわれがかつてどのように語っていたのかについて知るべきである。
 また、この時期、党は、天皇制が結局は君主制の一種であり、共和制が世界の流れであるにもかかわらず、このような前時代の遺物をなお残していることは恥ずかしいことであると、繰り返し、繰り返し宣伝していた。たとえば、「天皇を洗う」の第1回は、日本が、君主制が残っている国の中で最大の人口を持つ国であることを紹介し、その前時代性を批判している(『天皇問題――日本共産党の見解』、日本共産党中央委員会出版局、114~116頁)。また、先に紹介した和泉論文も次のように述べている。

 「歴史のあゆみは、確実に『主権在民』の確立、発展の方向にすすんでいます。ところが、天皇制と天皇の存在そのものが、国民のうえに特権的身分である天皇をおくものであり、戦前型の絶対主義的天皇制はいうまでもなく、どんな形であっても、歴史の進歩と世界の体制に反するものです。君主制度やそれを根拠づけようとする考え方は、まったく非科学的なものであり、このような前近代的な遺物をなくしていくことは、人類の解放と社会の進歩、自由と民主主義をめざすたたかいの、欠くことのできない一環です。とくに日本の天皇制は……戦前はもちろん戦後の『象徴天皇制』になってからも、わが国における『主権在民』の発揚と徹底にとってきわめて大きな障害になっており、わが国ではなおさらこの課題を重視する必要があります」(『前衛』1988年11月号、49頁、強調は引用者)。

 国内の主要な政党がすべて天皇制礼賛に屈服・追随している状況の中で、日本共産党が天皇制批判の大キャンペーンを行なったことは、まさに全党員が誇りにするべきものであり、わが党の歴史の中で燦然と輝く一章となっている

 ※注 ちなみに、この時期、不破は天皇問題に関する独自の論文を何一つ書いておらず、このキャンペーンにほとんど何の貢献もしていない。あれほど多作で、何十冊もの著作を書いている不破が、この問題でほとんど何も発言していないのは示唆的である。

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