〈質問〉 不破議長が天皇制批判キャンペーンにほとんど何の貢献もしていないと書かれていますが、この時期とは、不破氏が1987年11月の18回党大会より1989年6月まで病気療養などのため幹部会委員長職を離れていた時期ではないでしょうか?
〈回答〉 たしかに不破氏は1987年6月に病に倒れて数ヶ月間、党務から離れ、その間、村上弘委員長代行に代わっています。
しかし、党の天皇制批判キャンペーンは、天皇在位60周年を前にした天皇美化キャンペーンに対応したものであって、1985年からすでに始まっており、同年11月に開催された第17回党大会以降にいっそう本格化しています(17回党大会2中総決定、3中総決定などを参照してください)。つまり、不破氏が倒れる2年近く前から始まっているのです。
しかもこのキャンペーンは1990年ごろまで続いており、不破氏はその間にとっくに立ち直って、1987年11月に開催された第18回党大会では
副議長に選出され、本格的に党の指導部に復帰しています。さらに論文の方面でも、不破氏は、まさにわが党の天皇制批判がピークにあった1988年9月には「『新しい思考』はレーニン的か」という大論文を執筆発表しています(もちろんそれ以前にも多くの論文を発表しています)。
その後不破氏は、「レーニンの名による史的唯物論の放棄」や「『若きマルクス』は新協調主義の援軍となりうるのか」とい大論文を立て続けに発表しています。このように、不破氏の一時的な病気療養は、天皇制問題での不破氏の著しくわずかな「貢献」を説明するものではまったくありません。