総選挙問題トピックス(再録)

 以下の一連の記事は、総選挙に関するトピックスでの論評を再録したものです。

保守二大政党制への劇的な傾斜と共産党の惨敗――共産党指導部は総選挙の結果を直視して、政治責任をとれ!(03.11.10トピックス)

 ついに2003年総選挙の結果が出た。詳しい分析は次号の『さざ波通信』で行なう予定だが、以下に簡単に総括しておく。選挙前にわれわれが予想した通り、与党勢力は安定多数議席を獲得することで基本的に勝利し、民主党は政権交代の期待をもった保守・中間派の票を獲得して躍進した。共産党は比例で2001年参院比例票(431万票)よりやや多い458万票を獲得したが(投票率の関係から、たいてい衆院得票の方が参院得票よりも多い)、2000年総選挙から210万票も減らした。衆院得票数が500万票を割ったのは、1993年の衆院選以来10年ぶりであり、得票数458万は1970年代以降としては最低の水準である。また議席数としては改選時の半分以下の9議席に激減したが、衆院議席数が一桁になったは何と1967年の衆院選以来36年ぶりである。社民党にいたっては議席は3分の1の6議席にまで激減した。こうして衆院の総議席480のうち、与党と民主党で97・5%を占めるという前代未聞の事態になった。
 ちなみに、与党勢力の安定多数確保と民主党の躍進が同時に成立したことは、一部のマスコミによって、有権者の政権交代の意思が十分に成熟していなかったからだと説明されている。だが、実際にはそれは、小選挙区制による制度的歪みの結果である。民主党は比例代表で第一党になっており、にもかかわらず与党の安定多数確保が実現したのは、地方都市や農村部の小選挙区制で自民党がほとんど議席を独占したからである。
 いずれにせよ、今回の総選挙によって、日本政治の保守二大政党制は著しく進展し、日米支配層の基本的な政治的枠組み内部の政党だけが政権を争いあい、その枠を少しでも出る政策や綱領を持った政党が国政から排除されるという仕組みがほとんど確立された。これによって、帝国主義的上部構造はさらなる確固たる基盤を得ることになったと言ってよいだろう。残るは改憲のみである。
 共産党の志位委員長は、今回の総選挙結果をめぐる記者会見で、政党地図が選挙前に突然変わったかのように説明し、有権者に共産党の説明が浸透しなかったことを最も重要な敗因に挙げている。しかし、民主党の反動的本質については、われわれが『さざ波通信』を立ち上げて以来、さんざん繰り返し説明してきたことである。また、渡辺治氏を始めとする共産党系の理論家もそのことを繰り返し明らかにしてきたし、共産党の国会議員にレクチャーしたことさえある。しかし、共産党指導部はそうした道理ある主張にいっさい耳を貸さず、民主党への幻想を持ち続け、今回の綱領改定案をめぐる記者会見でも、民主党を含む野党の連立政権への期待を表明していた。いわば、前回大会の規約の改定に続く第23回党大会に向けた綱領改定作業は、民主党の不安感をぬぐうための努力でもあったわけである。
 だが、そのような努力はすべて無駄であることがわかった。共産党の中途半端な右傾化はとうてい民主党にとって受け入れ可能なものではなく、民主党は、これまでの議席の壁の打開を目指すべく、その反動的本質をいっそう徹底させて、自由党との合併を決意した。こうして、小沢一郎が、自民党時代から一貫して目指してきた保守二大政党制実現の前提条件がそろったわけである。
 保守二大政党制への大きな傾斜は、基本的に日本の帝国主義化という根本的流れに合致したものであり、それは1993年時点からすでに予想されたことである。だが、それにもかかわらず、単純小選挙区制ではないのだから、護憲・革新の第三極をこの二大保守勢力の外部に構築することは十分に可能であったし、そのための時間もたっぷり残されていた。保守二大政党制の実現を目指して開始された1993年の政変以来、政局はけっして一直線に保守二大政党制の実現に向けて進んだわけではない。それどころか、その間に、1995~1998年には共産党が大躍進するという時期も存在したのである。歴史は、日本の労働者人民に、保守二大政党制ではない別の政治的可能性をはっきりと与えたのである。もし共産党指導部がこの絶好の機会をしっかりと利用していたならば、そして先見の明と固い意志にもとづいて、首尾一貫して「護憲・革新の第三極」づくりに邁進していたとしたら、政治的様相は今日とはまったく異なったものとなっていただろう。
 だが、不破哲三によって支配されていた日本共産党指導部は、この絶好の機会を、よりにもよって新保守政党たる民主党との連立政権への参加を目指すという方向で利用することを決意した。社民党を民主党から切り離して第三極にひきつける努力をするのではなく、社民党を無視して自ら民主党に擦り寄るという致命的な路線を選択した。われわれは、1998年の参院選での大躍進直後に、共産党が安保棚上げの野党連立政権構想を不破が鳴り物入りで表明した時に、この路線が共産党にとっても日本政治にとっても致命的なものになることをただちに理解し、この『さざ波通信』を立ち上げる決意をした。そして、われわれのような一握りの末端党員になしうる最大限の努力を傾注して、この路線の変更をめざした。
 結果として、この努力は実らなかった。だが、われわれほど早期に、そして最も声高に、首尾一貫して、不破路線の誤りを明らかにし、今日の結果をはっきりと予測した者が他にいただろうか。われわれは、共産党が躍進につぐ躍進をしていた時に、党指導部が70年代の革新高揚期を上回る高揚期にあるという幻想を振りまいていた時に、この躍進が一時的なものであること、共産党が98年以来の路線をとり続けるかぎり、その土台から崩壊しかねないことを警告し続けた。歴史はきわめて不幸なことに、この警告の正しさを劇的に証明した。
 共産党指導部は、これほどまでにはっきりと現在の基本路線の誤りが示されたにもかかわらず、いまだに、党指導部にはいかなる責任もない、党指導部の路線は正しいものであったと強弁している! いったい自らの誤りを知るのに、これ以上のどのような証拠が必要だというのか! 現在の党指導部の姿勢は、明々白々な物証を目の前に突きつけられてもなお平然と白を切る汚職議員のようである。共産党の衆院議席が今や現在の党綱領を確立した1960年代の水準にまで落ちたというのに、なおも誤りはなかった、党指導部に責任はないと言い続けている。これほどの劇的な没落は、極左冒険主義路線をとって議席をほとんど失った1950年代以来である。
 この現実を前にしても自らの責任を否定し続ける党指導部にいかなる未来もないことは明らかである。この指導部のもとにあるかぎり、共産党は今後ますます衰退し没落していくことだろう。それでもなお、この指導部を容認し追随し続けるのか、それとも、党指導部そのものとその路線の根本的な転換を目指して闘うのか、これがすべての党員に鋭く問われている。(S・T編集部員)

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