以下の一連の記事は、総選挙に関するトピックスでの論評を再録したものです。
いよいよ衆院選挙戦は大詰めに向かいつつあるが、今回の選挙戦において、共産党ははじめて本格的な民主党批判を『しんぶん赤旗』や法定ビラや赤旗号外などで展開している。
民主党がけっして「よりまし政党」ではなく、自民党政治を右から改革する新自由主義政党であることは、われわれにとって民主党創設の時点から明らかであったが、共産党は民主党への幻想を持ち続け、本格的な批判を控え、これまでの選挙戦でも自民党批判に集中するという態度をとってきた。共産党指導部は無邪気にも、民主党を「過渡期にある党」としてとらえ、革新的方向に発展する可能性さえ信じていたのである。われわれは、『さざ波通信』においてこうした民主党幻想を繰り返して批判してきた。今回、民主党が自由党と合併して、その反動的本質がいっそう露骨になった時点で、ようやく共産党指導部は民主党の危険性に気がつき、きわめて遅ればせながら、その批判を開始したわけである。
もちろん、この転換は歓迎するべきものであり、民主党に対する批判をいっそう体系的に、いっそう徹底して行なうべきであるとわれわれは考える。いまだに民主党への幻想を振りまきつづけている『週刊金曜日』のような新自由主義的反動誌に比べたら、100倍もましである。しかしながら、民主党批判への着手はあまりにも遅すぎた。すでに、マスコミの大規模宣伝の効果もあって、政権交代に向けた民主党への期待はすでにそうとう国民のあいだに浸透してしまっている。しかもその浸透は、右派世論、中道世論にだけでなく、共産党の周辺にさえ及んでいる。共産党の運動員が支持者名簿をもとに選挙での支持を訴える電話かけをすると、少なからず、今度は民主党に入れるという声が聞かれる。もし共産党が、数年前から民主党の反動的本質を徹底的に暴露していたとしたら、少なくとも共産党支持層やその周辺層にはこれほど民主党への幻想が広がることもなかったであろう。
きわめて皮肉なことに、民主党が自由党と合併してその反動的本質が剥き出しになった時に、かつてなく民主党への期待が膨らむという事態が起きている。これは、日本の世論の右傾化を示す新たな証拠であるが、それと同時に、革新勢力が「先進的」役割を何ら果たさず、民主党への幻想を持ちつづけてきたことの罰なのである。歴史という厳格な裁判官は、共産党のこの失態を許しはしなかったのである。
共産党は、民主党への評価を大きく転換したとはいえ、その批判には重大な限界がある。まず第一に、民主党が自由党との合併によって大きく変わった、転換したと認識していることである。おかしな話ではないか? 自分の党よりずっと小さな党と合併してどうしてそれほど根本的に転換するようなことがあるのか?
しかし、民主党の政策は、実際にはそれほど大きな転換を遂げたわけではない。たとえば憲法問題にしても、鳩山由紀夫が党首であったころには、党首自ら改憲を全面的に主張する論文を発表し、改憲に向けた世論作りへ一役も二役も買っていた。われわれはこの論文が発表された直後に、それを全面的に批判する論文を発表したが、共産党はそうしたことは何もしなかった。党としても民主党は「論憲」として改憲に向けた世論づくりを画策してきた。また民主党は自由党と合併する前に有事立法にも賛成し、自衛隊の海外派遣にも反対していない。選挙制度に関しても、元党首の鳩山は単純小選挙区制に賛成の立場でさえあった。経済政策面でも、民主党は自民党の不徹底さを右から批判し、「小さな政府」の立場からもっと大胆に規制緩和や民営化や国民向け予算削減を主張するという立場であったし、消費税増税にも賛成であった。民主党の本質は何ら変わっていない。それは自由党の合併によって変わったのではなく、その反動的本質がよりはっきりと示されるようになっただけのことである。
第二に、共産党指導部は、これまでの民主党評価について何の反省もしてない。石原慎太郎に対してさえ「是々非々」という腰抜けの態度を取ってきたのと同じく、民主党の革新的発展に期待するという立場をとり続けた。その報いをいま受けているのである。
今さらながら開始した民主党批判によっては世論を変えることはできないだろう。しかし、これからけっして右顧左眄することなく、系統的かつ徹底して民主党の反動的本質を暴露し、自民、民主に代わる第三極づくりに努力するならば、そして、次からは全区立候補というセクト主義的方針をやめて、新社会党や革新無党派、場合によっては一部の社民党候補者などと協力して、革新勢力全体の底上げと再編に努力するならば、ますます保守化、右傾化しつつある世論と政治的力関係を多少なりとも革新的方向で変えることができるだろう。それは共産党指導部に課せられた最低限の義務である。(S・T編集部員)