インタビュアー そのような国民世論の受容性というのは、いったいどうして生じたんでしょう。
H・T まず基本的な動向を決定しているのは、何といっても日本の圧倒的な経済大国化でしょう。経済主義的と非難されるのを覚悟の上で言うと、長いスパンで見るかぎりでは、この要因こそが実に決定的です。むしろ日本独自の問題として重要なのは、日本の経済大国化と国民意識の帝国主義化との間にかなりの時間的ズレがあったことです。日本の経済大国化はすでに70年代に現実のものとなっています。そして、事実、1975年以降、この経済大国化と軌を一にして世論の保守化が進みます。
しかし、その保守化は、現在見られるような帝国主義化とは相当に開きがあります。その当時の保守化の中身は、簡単に言うと、既存のものとの和解です。いわば「存在するものは合理的である」というヘーゲルの命題よろしく、すでに長きにわたって存在している安保・自衛隊を一定容認するという形でしかありませんでした。したがって、既存の枠を大きく越えるような新しい動きにはやはり相当に世論に反発がありました。中曽根の戦後政治の総決算が結局挫折したのは、そのためです。
インタビュアー そのようなズレを生んだ要因は何ですか?
H・T 端的に言って、憲法9条の規範力と戦後民主主義運動の根強い力、そしてアジア諸国の厳しい警戒心でしょう。もし日本に憲法9条がなく、戦後民主主義運動が脆弱で、アジア諸国の警戒心が弱かったとしたら、はっきり言って、ベトナム戦争の時点ですでに日本は軍隊を外国の戦場に送っていたでしょうね。実際、韓国は、日本よりもはるかに経済力が遅れていたにもかかわらず、すでにベトナム戦争で軍隊を派遣し、多数の戦死者を出しています。
よく、憲法単純空洞化論というのがありますよね。要するに、憲法9条なんかあったって、どんどん自衛隊は大きくなっていっているじゃないか、憲法の規範力などほとんど発揮されていない、と。例の平和基本法論者なんかは、直接的にそう言っています。これはね、おもしろいことなんですが、こういう「空洞化論」が出ること自体、憲法の規範力の強さを示しているんです。
インタビュアー と、言いますと?
H・T つまり、日本の自衛隊は戦闘に参加しない、海外に派遣されない、ということがあまりにも常識になっているため、そのこと自体が実は憲法の規範力と戦後民主主義運動のおかげなんだということさえ忘れられてしまって、自衛隊の量的拡大だけをもって、憲法の単なる空洞化が生じているように見えてしまうわけです。
もちろん、自衛隊の存在もその量的拡大も憲法違反であり、その現象が続いていることは、一面では憲法の空洞化を意味しています。しかし、他方の面、もし憲法9条がなかったら、それではとうていすまないということが忘れられているんです。たとえば、日本には今だに軍部がなく、有事立法がなく、スパイ防止法がない。PKO協力法によって海外に部隊が派遣されるようになったといっても最小限の武器の携行しか認められない。また、自衛隊というものがどこまでも憲法違反であるというおかげで、他のアジア諸国や帝国主義国に見られるように軍隊が国内で大きな顔をし、軍部がしばしば暗躍して直接的な権力を振るうというような事態に、いまだになっていない。
今回の新ガイドライン法にしたって、戦闘区域と後方地域とを区別したり、武力の行使と武器の使用を区別したりといった形で憲法を考慮に入れざるをえず、さまざまな限定を加えざるをえなかったわけです。
インタビュアー でも、そのような限定はいわば、新ガイドライン法を通すためのごまかしであるとも言えるわけですよね。
H・T もちろん、一面ではそうです。しかしながら、ユーゴ空爆に参加したドイツ軍のように、実際に戦闘行為に参加するような法律にしてもよかったわけですよね。しかし、実際にはそのような法律はつくれなかったし、つくったとしてもさすがに公明党の支持を得ることはできなかったでしょう。また、今回の法案にしても、憲法違反は明白なのに、憲法違反ではないという解釈を一貫してとりつづけました。自由党の小沢のような、より自覚的な帝国主義者にとってみれば、そこが不満なところなわけですよ。
インタビュアー そういえば、小沢が『正論』誌上で、今回の法案は戦争に参加しようという話なのに、そのことを政府自民党はごまかそうとしている、と書いて話題になりましたね。
H・T これは言ってみれば彼らの側のジレンマです。小沢のような立場からすれば、明確に戦争をやるんだという意識を国民に持ってほしい。しかし、その面を突出させると法案の成立はきわめて難しい。だから結局、自民党はごまかしながら、法案成立を優先させるという、実をとることにしたわけです。