新ガイドライン法の成立と従属帝国主義(上)

新ガイドライン法案と国民意識の帝国主義化

「手段としての軍事力」という発想

 H・T もう一つ、ソ連東欧の崩壊と湾岸戦争は、軍事ないし戦争というものに対する日本国民の態度にある大きな変化を引き起こしました。

 インタビュアー と、言いますと?

 H・T それは、「軍事力の利用可能性」、あるいは「手段としての軍事力」という発想を生んだことです。
 それまでは、自衛隊にしても安保にしても、それを受容する論理というのは基本的に、万が一日本が侵略された場合に必要になるという「専守防衛」の論理でした。それは9条的な高度な平和主義とは異質でしたが、しかし、あたかも一国の警察力を扱うかのごとく、軍事力によって一般的な秩序維持をはかるという発想とも遠く隔たっていました。自衛隊を正当化するのによく使われた論理として「鍵かけ論」(自衛隊を持つのは自宅に鍵をかけるのと同じという議論)というのがありましたが、それはあくまでも、自宅にいる善良な市民が強盗に襲われた場合という設定にもとづく正当化論であって、武装した市民が近所をうろつき回って、強盗しそうな奴を片っ端からたたいていくというのとは全然違うものでした。
 後者のような発想にならなかった一つの理由は、いわゆるソ連圏が存在したためです。アメリカを中心とする軍事ブロックとソ連を中心とする軍事ブロックというのは、一般大衆からしてみれば、ものすごい武装をした広域暴力団のようなものであって、日本のようなちっぽけな国が少々武装したところで、それらに対抗できるはずもなく、基本的にアメリカの軍事ブロックに入っておとなしくしていればよい、という世論が支配的になりました。
 しかし、ソ連東欧が弱体化しその後崩壊したことで、日本がアメリカという強力な武装集団をバックに「世界の警察官」的なことをするという発想がリアリティを持ちはじめました。そして、そのような発想に強力な実例を提供したのが、湾岸戦争です。イラクという国は、ソ連ほど強力ではなく、かつ部分的に国際秩序を乱す程度には武力を持ち、悪さをする国です。そして、湾岸戦争によってイラク軍をクェートから追い出すことに成功したことで、軍事力を有効に使えば世界の警察官としての役割を果たすことができるのだという強烈な印象を日本国民に与えました。そして、その「悪者」退治の過程を、日本が、憲法9条の存在ゆえに、指をくわえて見ていなければならなかったという欲求不満は、なおさら、国民意識における帝国主義化に拍車をかけました。

 インタビュアー それで思い出しましたが、私のある友人(ちなみに党員です)は、湾岸戦争が始まる直前、「イラクごときになめられてたまるか」と発言したことがあります。私はそのあまりに「帝国主義的」な発言に唖然としてしまいました。第1次世界大戦でドイツ社会民主党が崩壊したときというのは、こんな感じだったのかな、とおぼろげに感じました。もっとも、彼はその後、自分の発言を反省していましたが。

 H・T おそらく、当時、似たような感情に襲われた人々は多かったはずです。湾岸戦争にしても、現在のユーゴ空爆にしても、攻撃する帝国主義陣営の側は、まったく、ないし、ほとんど人的被害を受けずにすむ一方的な殺戮となっています。戦争というのは、かつては、侵略する側にも多大な損害を与えかねない、国運をかけた大事業でした。しかし、空爆技術の恐るべき発展、操縦士がいなくても数百キロメートル離れたところから目的地に着弾させるトマホークなどの軍事技術は、ある意味で、戦争の姿をもう一度塗り替えました。

 インタビュアー 「もう一度」というのはどういう意味ですか?

 H・T 第1次大戦までは、戦争は専門的軍隊同士の戦争でした。第1次大戦はそれを国民同士の戦争、すなわち総力戦に変えました。そして、飛行機の発展は、前線と後方との区別を著しく小さくし、しばしば国全体を戦場に変えました。第1次大戦以前には戦死者の圧倒的多数が兵士であったのに、その後、しだいに戦死者の多くが民間人になり、第2次大戦では過半数が民間人であったことに、このことは示されています。しかし、空爆技術のさらなる発展は、再び戦争の性格を変えました。今度は、高度な技術を備えた専門的軍隊と無力な国民との戦争になったのです。
 この性格変化の最初の徴候はすでに、ドイツ軍によるゲルニカ爆撃や日本軍による中国への空爆、太平洋戦争末期における日本への米軍の空襲などに示されていますし、ベトナム戦争でかなりの発展を遂げますが、本格的な完成を見るのは、やはり湾岸戦争です。湾岸戦争前は、イラクの軍事力がいかに脅威であるかがさんざん喧伝されましたが、しかし実際にふたを開けてみると、イラクの軍事力は張り子の虎であり、多国籍軍の猛烈な空爆になすすべはありませんでした。当時よく言われましたが、攻撃する側は、あたかもテレビゲームをするように、イラクの建物や施設を思う存分破壊することができ、しかも、自分たちはけっして攻撃されることはないのです。さらに、攻撃する側は、自分たちは「正義」である、秩序を乱した悪者をやっつける警察官、ダーティーハリー、ランボーであるという感覚に浸ることもできました。

 インタビュアー しかも、湾岸戦争のときは、国連決議という「お墨付き」もありましたしね。

 H・T そうです。アメリカ支配層にあっては当時、「道具としての軍事力」という発想に「道具としての国連」という発想が結びついていました。ゴルバチョフ政権の対米協調政策とその後のソ連崩壊のおかげです。しかしその後、国連が必ずしもアメリカの言いなりにならないことがわかり、アメリカの支配戦略に重大な変更が加えられ、国連よりもより便利なNATOや個々の軍事同盟などが戦略上の基軸に座ります。新ガイドラインもそうした新しい戦略の延長線上にあります。  それはともかく、湾岸戦争によって戦争の姿は大きく変質しました。それは戦争というよりも一方的な殺戮でした。もっとも、湾岸戦争は、米軍兵士の側にも、米軍が用いた劣化ウラン弾の影響で、後に湾岸戦争症候群やガルフウォー・ベイビーなどと呼ばれる悲惨な結果をもたらしましたが。ちなみに、現在のユーゴ空爆にも劣化ウラン弾が使用されていると言われています。
 こうして、湾岸戦争は、いろいろな意味で、転機となったのです。

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