新ガイドライン法の成立と従属帝国主義(上)

新ガイドライン法案と国民意識の帝国主義化

社会党の躍進と崩壊

 インタビュアー なるほどわかりました。では次に、社会党の躍進とその後の崩壊についてお話しください。

 H・T バブル景気とほぼ同じ時期に起こったのは、社会党の大躍進でした。このとき、「市民の時代」などという言葉が盛んに使われましたが、これはある意味であたっています。つまり、社会党の大躍進という政治現象が大々的に告げたのは、「帝国主義的市民の時代」の幕開けだったのです。すでに日本の経済大国化と日本企業の多国籍化、日本国民の意識の中で形成されてきた経済大国意識は、従来の自民党政治の枠組みとは相いれないものでした。リクルート事件を始めとするたび重なる汚職事件、旧態依然たる官僚主義、なおもちらつく復古主義、農村や都市自営業に対する保護主義、等々等々は、都市部の中上層市民を中心とする諸階層にとっても、多国籍企業にとっても、とうてい自分たちの政治的・経済的利害の受け皿になりえないものでした。
 しかし、興味深いのは、このような種々の不満が、このバブル期においては社会党の大躍進という形で政治的に表現されたことです。こういうことが起きたのは、新しい保守主義を希求する勢力(都市の中上層)と、旧来の護憲・革新の政治を希求する勢力(都市の中下層)とが、全般的な好景気の影響もあって、十分に分化していなかったからです。自民党は前者の勢力の勃興に気づかず、旧来の保守政治をあいも変わらず続けていました。それゆえ、どちらの勢力の票も、土井たか子という都会的キャラクターを持った党首をいただく社会党に流れこみました。
 それによって社会党は、これまで手にしたことのないような大きな議席と政治的影響力を獲得しましたが、その基盤は、実はまったく異なった方向性を目指していたのです。一方は、支配層の基本枠組み(安保、自衛隊、大企業支配)を肯定した上で、保護主義や利益政治とは手を切った新しい保守政治を潜在的に目指しており、他方は、支配層の基本的枠組みと相いれない伝統的護憲・革新の政治を目指していました。社会党は、この二つの勢力の影響を受けた議員たちの矛盾する圧力を受けて右往左往し、結局、どちらの勢力からも見離され、その後、急速に没落し、最後には崩壊をとげてしまいます。
 社会党の躍進にショックを受けるとともに、湾岸戦争やソ連東欧の崩壊の意味をいち早く察知した、保守の中の政治的に鋭敏な部分は、都市の中上層市民を中心とした新興政治勢力を受け皿とした新しい保守主義を目指しはじめます。都市の中上層市民の方も、社会党の右往左往と体たらくに愛想をつかして、新しい政治勢力を模索し始めます。こうして、93年の政変へとつながっていくのです。

 インタビュアー なるほど。しかし、こうして見ると、90年前後というのは、いろいろな意味で戦後日本史の転機をなしているという気がしますね。

 H・T まったくその通りです。

 インタビュアー では、このような国内外の諸事件をきっかけにして、日本の帝国主義化が加速した時期、革新陣営、あるいは左翼の側の対応はどうだったんでしょう?

 H・T この時いちばん必要だったのは、帝国主義という概念を改めて分析の基軸に据え、帝国主義化との闘いを運動の基本に位置づけることでした。しかしながら、新左翼の多くは、60年代からすでに「日帝」という言葉を慣用的・惰性的に使い続けていたので、この時点で改めて帝国主義という問題枠組みに新鮮な目で取り組むことはできませんでした。他方、共産党指導部は、「帝国主義」概念をあくまでも避け続けようとしたため、やはり帝国主義という問題設定を正面に据えることができませんでした。
 私たちの側も、日本の帝国主義化という問題枠組みを分析の基軸に据え始めるのは、92~93年に小選挙区制を中心とする政治改革がクローズアップされてからです。ミネルバのふくろうの寓話にあるように、日本の帝国主義化が底流で進んでいた88年から91年にかけては、十分にその意義を理解することができませんでした。それに気づいたのは、その底流が土壌を突き破って政治の表面に飛び出し始めた92~93年になってからのことです。

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