右からの不公正な共産党批判――『論座』論文への反論

2、中小企業論と社会主議論

 さて、次に鈴木氏は、共産党の「ダブルスタンダード」について具体的に批判を試みている。
 たとえば、共産党が、大企業による中小企業の系列化による搾取・収奪を非難しながら、昨今の不況で中小下請けを切り捨てていると批判しているのは、「悪いのは常に大企業という『ご都合主義』の論理」だと鈴木氏は非難する。
 なぜこれが「ご都合主義」なのか、われわれにはさっぱりわからない。大企業は、一方では系列を通じて中小下請けをぎりぎり絞りながら、不況となるとさっさと下請けを切り捨てるのである。このことを批判するのがどうして「ご都合主義」なのか。これが「ご都合主義」なら、資本家は労働者を搾取しているという批判と、資本家は不況になると労働者を一方的に解雇するという批判とは両立しないことになるだろう。
 さらに鈴木氏は、日本共産党とソ連との関係についても批判している。少し長くなるが、その部分を引用しよう。

「この党は、かつてソ連との蜜月時代に、ソ連の首脳が唱えていた『資本主義に対する社会主義の優位性』を口移しのごとく叫んでいた。『二十世紀中の早い時期に社会主義体制は資本主義体制に追いつき追い越す』と、日ソ両党は事あるごとに言明していた。フルシチョフのプロパガンダに即応した形でのおうむ返しであった。いわば体制選択論を武器にしていたのである。
 ところが、ソ連・東欧の社会主義体制が崩壊し、資本主義サイドからそのことを理由にしての社会主義敗北論が弁じ立てられるや、『社会主義が崩壊したのではない。つぶれたのはスターリン、ブレジネフらの間違った社会主義体制であって、本来の社会主義の精神は今なお生きている』と党幹部は反論し、『前衛』92年7月号は『体制選択論を打破する先頭に』との特集を組んで、逆キャンペーンを張っている。要するに日本共産党は、都合のよいときに『体制選択論』で社会主義の優位性を説き、劣勢となるや『体制選択論を打破しよう』との、ご都合主義的なスタンスを決め込む。臆面もなくダブルスタンダードを用いるのである」(201~202頁)。

 日本共産党の社会主議論についても、その変転についても、われわれは厳しい批判意見を持っている。この問題についてはいずれ詳しく書く機会があろう。しかし、それにしても、この鈴木氏の議論は具体的な歴史をまったく無視している。日本共産党がソ連共産党と蜜月にあったのは今から40年も前のことである。その後、フルシチョフ修正主義という言葉に象徴されるように、厳しい対立の長い時期が存在し、一時的に関係回復の兆しが見えたときも、ソ連のアフガニスタン侵攻によって再び両党は厳しく対立しあい、その後、チェルネンコ時代に再び関係改善が進んだあとには、ゴルバチョフの新思考を「レーニン死後最大の誤り」として最大級の攻撃を加える時代が続き、そしてついにソ連共産党は崩壊するのである。
 その間、既存の「社会主義」諸国を無批判に賛美していた時代から、しだいに現存「社会主義」に対して批判的になり、「生成期社会主義」論が唱えられ、さらに、ソ連共産党と対立しながらも「社会主義の優位性」論を声高に宣伝する時期があり、そして、ソ連崩壊後に「ソ連は社会主義でも過渡期社会でもない」という結論に至るまで、それこそ共産党の社会主議論は繰り返し大きな変化を遂げている。
 ところが、鈴木氏の議論を読むなら、あたかも、フルシチョフ初期の「蜜月」期とゴルバチョフ末期のソ連崩壊との間には、歴史の真空が横たわっているかのようである。あたかも、共産党の社会主議論が、ソ連に対する無批判的立場から「スターリン=ブレジネフ体制」を社会主義を無縁とする立場にいっきに変わったかのようである。これこそ、「ためにする批判」ではないのか?
 しかも、鈴木氏は、現在の共産党の社会主議論についても、きわめて不正確な紹介の仕方をしている。共産党は、ソ連崩壊後、ソ連に存在した体制を「社会主義とも過渡期社会とも無縁な専制国家」と規定するようになった。われわれはもちろん、このような規定に反対である。しかしいずれにしても、その規定は、鈴木氏が言う「スターリン、ブレジネフらの間違った社会主義体制」というのとはまったく異なる。「スターリン=ブレジネフ型社会主義」という言い方をしていたのは、ソ連崩壊までのことである。鈴木氏は、きわめて居丈高に共産党を非難しながら、その社会主議論についてまともに調べようとすらしていない。これが、ジャーナリストとして誠実な姿勢だろうか?

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