右からの不公正な共産党批判――『論座』論文への反論

3、日本共産党の農業政策

 次に筆者は、共産党の農業政策を数十年前にさかのぼって厳しく非難している。われわれはこの方面では十分に専門的な知識を持っていないので、いくつかの論点にしぼってコメントしたい。
 たとえば、鈴木氏は、共産党が農民を被害者として描きだしていることをもって、「農民準禁治産者論」だと断じ、「農民は自主的に物事を判断できず、ただ体制に動かされるだけの存在という見方」をとっていると批判する。
 これは、個々人による自主的判断能力の有無の問題と、そうした個々人が数十・数百万と集合して構成される階層の問題、あるいは、それらの人々が思い思いに行動することで全体として生じる集合的過程の問題とを混同した「ためにする批判」である。
 農民であれ労働者であれ、個々人は--常にとは言わないまでも、しばしば--自主的に判断し、自らの行動を決定する。しかし、個々人は、そうした自分の自主的判断を含む数十・数百万の集合によって生み出される全体としての過程を決定することはできない。それは、全体としての過程をより強める方向に働きかけるか、より弱める方向に働きかけるかの、いずれかでしかない。共産党が問題にしているのは、階層としての農民が現在の社会の中で置かれている一般的位置の問題であり、そのかぎりで、農民は、自民党の農業政策において被害者であったと言っているにすぎない。実際には、自民党は農業保護や農村への、公共事業を通じた所得移転もやっていたのだから、「被害」の側面ばかりではないが、しかしいずれにしても、何らかの階層を全体として「被害者」として位置づけることと、その階層に属する個々の成員を自主的判断能力のない「準禁治産者」とみなすこととは、まったく別のことである。
 現在の男性優位社会の中では、女性は全体として差別され抑圧されている「被害者」であり、白人優位社会の中では、黒人は全体として差別され抑圧されている「被害者」である。だが、こうした規定は、個々の女性や黒人を「自主的判断能力のない準禁治産者」とみなすこととは、まったく異なる。
 また、鈴木氏は、共産党がかつて協同組合化という形の農業集団化を主張していたのに、現在は家族農業重視になっているのはおかしい、と主張している。どうやら、氏によれば、共産党は、40年前だろうと30年前だろうと一度出した政策はけっして変えてはならないらしい。しかし、共産党は別に協同組合化の政策を放棄したわけではない。社会主義革命後の方策として、合意と実例にもとづく漸次的な協同組合化の政策そのものは現在も維持されている。たしかに、資本主義社会のもとでの対抗政策として、家族農業を以前よりも重視するようになったのは事実だが、別にこの変化は隠されてはいない。
 さらに鈴木氏は、共産党がかつて農業の機械化が農民の過剰な負担になっていることを批判した事実を取り上げて、農業の機械化の優位性をことさらに主張することで反論としている。あたかも、共産党が機械化そのものを否定したかのようだ。しかし、共産党が批判したのは、農業機械が独占価格で売られているため、農民にとって過剰な負担になっているということであって、機械化そのものを否定したわけではない。農業機械の独占価格を引き下げ、低利の融資等によって、農民が過剰な負担を負うことのないよう、共産党は主張したのである。
 また、鈴木氏は、共産党の農業政策にはいい面もあるとしながら、その財政的裏づけがなっていないと、次のように批判する。

「だが、この財政難のなかでいかに財源をひねり出すかについて、この党は大企業優遇税制の廃止をもっぱら主張する」(210頁)。

 驚いた。共産党は財源問題として「大企業の優遇税制の廃止」しか言っていないそうである。共産党が発表した財政再建10年計画における主要な財源は、無駄な公共事業の大幅見直しと軍事費の削減である。『さざ波通信』第1号の雑録論文で指摘したように、最近は軍事費削減の主張が後景にしりぞいており、これは重大な問題であるが、それにしても、「大企業の優遇税制廃止」だけを主張しているというのは、あまりにも不正確にすぎるのではないか?

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