右からの不公正な共産党批判――『論座』論文への反論

5、レーニン主義のドグマ

 鈴木氏は、「科学的社会主義」を批判するだけにとどまらず、その一部たるレーニン主義をもとり上げ、それを厳しく非難する。われわれもまた、鈴木氏とはまったく別の立場からであるが、レーニン主義には批判的であるべきだと考えている。しかしながら、鈴木氏のレーニン主義理解は一面的であり、しかるべきバランスを欠いている。
 まず氏は、「よく知られているとおり、『唯一前衛党論』や『民主集中制』は、レーニン主義から導き出されてきた」(209頁)と述べている。あたかも、「唯一前衛党論」や「民主集中制」なるものが、レーニン主義に独特のものであるかのような主張である。だが実際には、それはドイツ社会民主党からレーニンが受け継いだものであり、むしろ、その起源は「カウツキー主義」にあると言うべきだろう。
 また氏は、「コミンテルンの伝統を受けた民主集中制の組織原則によって異論や少数意見は表面に出ないまま封圧されてしまう」(同頁)と述べている。しかし、レーニン時代のコミンテルン諸党では、自由な論争が保障され、異論や少数意見は弾圧されなかった。ブレスト・リトフスク講和問題でレーニンと対立したブハーリンは、独自の分派を結成しただけでなく、独自の機関誌まで発行し、党内でも党外でも自由に宣伝し、レーニンをこっぴどく批判した。だが、ブハーリン派の誰一人として弾圧されはしなかった。
 もちろん、レーニン存命中でも、内戦が激しくなるにつれて、ますます異論派への態度は厳しく偏狭になっていった。さらに、1921年の第10回党大会で分派禁止決議が採択された以降は、分派活動の自由は著しく制限された。したがって、われわれはレーニン下のロシアをも無批判に美化してはならない。しかし、それにもかかわらず、党内での討論の自由が基本的に保障されていたレーニン時代と、異論の表明がただちに除名や投獄や銃殺とつながったスターリン時代とを区別せずに論じることは、歴史を歪曲することである。
 また、鈴木氏は「革命権力保持のためにテロと秘密警察を使った強権的な指導者こそ、レーニンその人であった」(同頁)と述べている。もちろん、われわれは、レーニン指導下でのテロや秘密警察が常に人民のために適正に用いられたなどと言うつもりはない。多くの行きすぎ、逸脱、濫用があった。だが、当時の反革命勢力が、列強諸国の軍事干渉に支えられつつ、最も残忍な独裁権力とテロを用いたことが無視されているのはなぜか。白軍が支配した地域では、共産党員もそのシンパも容赦なく銃殺され、大量のユダヤ人が最も残忍な方法で殺され、多くの村では、ソンミ事件も顔負けの大量虐殺が横行した。このことを無視してレーニンのテロだけをあげつらうのは、まったく不公正ではないか。
 また、革命権力保持のためにテロと秘密警察を用いたのは、何もレーニンだけでなく、フランス革命期におけるロベスピエールもそうであった。南北戦争時のリンカーンも大量のテロを行使した。彼らは、社会主義の名においてではなく、民主主義の名において、テロを用いた。
 あるいは、単なる権力保持のために、現在のアメリカ政府は日常的に秘密警察を用い、多くの要人・活動家の会話を日常的に盗聴し、頻繁にテロも用いている。アメリカをはじめとする西側「民主主義」諸国はかつて、中南米やアジアの最も残酷な独裁政権を支持してきたし、今も支持している。日本政府も、秘密警察を持っているし、今や盗聴すら合法化しようとしている。あたかも、テロと秘密警察による強権政治をレーニンないしレーニン主義に独特なものであるかのように主張することは、これまた歴史の偽造でしかない。
 さらに鈴木氏は次のように述べている。

「日本共産党は今なおレーニン主義から離別できず、党員の必読学習文献にレーニンの論文を列挙し続けているのである。レーニン主義を相対化できないままで、他党に連携・共闘を呼びかけるのはあまりにも虫がよすぎるというものだ」(同頁)。

 共産党がレーニンの文献を党員の必読文献に入れていることが、共産党がレーニン主義を相対化していない証拠というわけだ。まともな経済学者なら、経済学部の学生に、経済学の必読文献として、リカードやスミスの主要著作をも挙げるだろう。だからといって、この経済学者は、リカードやスミスを相対化していないことになるだろうか? 鈴木氏の言い分に従うなら、レーニン主義を相対化するためには、党員にレーニンを読ませてはいけないことになってしまう。だが、レーニンも読まずして、どうしてそもそもレーニン主義を相対化することができるのか? これこそ非科学的な主張ではないか(ところで、鈴木氏は、レーニンの書いたものを実際に読んだうえで、レーニン主義を相対化したのか、それともレーニンを攻撃する右派知識人の著作だけを読んで相対化したのか?)。
 もっと驚くべきは、共産党はレーニン主義を相対化していないので、他党に共闘を呼びかけるのは「虫がよすぎる」という主張である。別の箇所では「レーニン主義を捨て党名を変更しないかぎり、『野党共闘』の実現は不可能と言うべきだろう」(同頁)とも述べている。共闘の論理、統一戦線の論理を真っ向から否定する暴論である。ある特定の課題で共闘するためには、その党の基本的な主義主張を「相対化」ないし放棄し、党名も変更しなければならないというのだ。
 同じことを、共産党が他の党に言ったとしたらどうだろう。たとえば、民主党が資本主義を「相対化」ないし放棄して、党名を変更しないかぎり、盗聴法案反対では共闘できない、あるいは、社会民主党が、社会民主主義を「相対化」ないし放棄して、党名を変更しないかぎり、新ガイドライン法案反対では共闘できない、等々。もちろん、共産党がそんなことを言えば、とんでもないセクト主義、とんでもないスターリン主義として非難されただろう。だが、同じことを要求されるのが共産党なら、問題ないというわけだ。
 鈴木氏は、共産党に対して「唯我独尊の党体質」と論難している。だが、「唯我独尊」はいったいどちらなのか?

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