この「雑録」は、日本共産党とその周辺をめぐる動きの中で、短くても論評しておくべきものを取り上げて、批判的に検討するコーナーです。
『東京新聞』に興味深い記事が載っていたので、それを紹介し、「日の丸・君が代」の押しつけ問題について考えてみたい。その記事は5月9日付『東京新聞』の社説で、次のような一節が含まれている。
「筆者が初めて米国に勤務した四半世紀以上昔のこと。近くの公立校に通い始めた小学校低学年の娘が、アメリカ国歌『星条旗よ永遠なれ』や準国歌『アメリカ・ザ・ビューテイフル』を早々に口ずさむのに気付きました。聞くと、毎朝の始業前、星条旗を仰いで斉唱するというのです。なるほどたたき込まれるわけで、『自由な国』の意外な国家意識の高揚努力に『へえ』と感心した覚えがあります」。
日本では、始業式と卒業式に「日の丸・君が代」をやるだけでこれほど問題になっているというのに、アメリカでは毎朝、国旗掲揚と国歌斉唱をやっているのである。同じ驚きは、アメリカのある映画を見て私も感じたことがある。その映画は幼稚園が舞台であったが、ごく普通に、毎朝、園児たちにアメリカ国家の偉大さとそれへの忠誠を誓わせる場面が出てきた。その幼稚園は特別に右翼的という設定ではなく、中産階層向けの普通の幼稚園として描かれていたから、このシーンにはぶったまげた。もし日本で同じことをやれば、たいへんなことになるだろう。アメリカ人(主に白人)における、「ナショナルなもの」へのこの屈託のなさには本当に驚かされた。
日本で文部省があれほど血眼になって教育現場に「押しつけ」なければならないという事実は、一部のラディカル派だけでなく、広範囲にわたって、「日の丸・君が代」に対する抵抗や反発が国民諸階層の中に存在していたこと、そしてそれにもとづいて戦後民主主義運動が大きな役割を果たしてきたことを物語っている。アメリカでこうしたことが問題にならないのは、アメリカ政府が民主主義を尊重するからでも、教育の自主性を尊重するからでもなく、国旗掲揚や国歌斉唱に対する国民的抵抗がほとんど存在しないからである。すでに、『さざ波通信』第2号でも紹介されているように、アメリカ政府は法律でもって国旗の掲揚を学校に義務づけている。これは、文部省の指導による「押しつけ」よりも、はるかに強力な「押しつけ」である。にもかかわらず、国旗・国歌に対する教育現場での広範囲な抵抗や反発が存在しないため、この「押しつけ」が「押しつけ」として現象しないだけなのだ。
ところが、この日本では、教職員や父母、あるいは生徒の中からでさえ、「日の丸・君が代」に対する根強い反発と抵抗が存在した。「ナショナルなもの」に対するこうした抵抗や反発こそ、右派・体制派が口を極めて非難しているものであり、昨今の自由主義史観派が「自虐史観」とののしっているものである。まさにそれゆえ、文部省はあれほどの力技を必要としたのである。
したがって、この問題に関しては、アメリカなどの他の帝国主義国を模範としたり、「世界の常識」なるものを持ち出して、日本の現状を告発しようというわが党指導部の立場は、やっぱり的外れにならざるをえない。必要なのは、日本の現状を「世界の常識」なるものに合わせることではなく(「普通の国」路線!)、戦後民主主義運動の内包していた可能性を押し広げ、その限界を越えて発展させることである。