H・T しかし、日本企業の多国籍的海外進出を遅らせた要因にはもう一つあります。それは、企業社会の独特の構造とも深くかかわっていますが、やはりそれとは相対的に区別される要因です。それは、戦後日本における独特な労働力人口構造です。
インタビュアー と言いますと?
H・T この問題は、渡辺治氏も言及していないと思いますが、戦後日本における人口構造は先進国の中でも非常に特異なものでした。この点の詳しい説明は、林直道氏の一連の著作を参考にしてほしいのですが、かいつまんで述べると次のようになります。
日本の戦後の高度経済成長は、きわめて豊富な若年労働力人口があってこそ実現できたものです。若年労働力が労働市場に豊富にあったからこそ、企業社会的体制の基本要素である年功賃金や終身雇用の建前も維持することができたのです。
もし、日本が他の先進国と同じく、人口構造が「釣鐘型」で、中高年の年齢人口部分が分厚い場合には、年功賃金は企業にとって非常に賃金コストが高くつくものになったでしょうし、終身雇用の建前を数十年間にわたって維持することなどとても不可能だったでしょう。逆に、当時の豊富な若年労働力が今では中高年になっているので、賃金コストのアップとなって企業収益を圧迫し、中高年からリストラの対象にされているのですが、その点については後述します。
インタビュアー その特殊な人口構造というのは何によってもたらされたのですか?
H・T 理由は大きく言って3つありますが、いずれも基本的には戦前の特殊な社会構造とそれが戦後改革によって劇的に構造変化を遂げたことに起因しています。
まず1つは、戦前の日本の人口構造が基本的に第3世界型のピラミッド型で、年齢階層が低くなればなるほど人口が多くなるという、末広がりの構造を持っていたことです。日本はこの人口構造をもって終戦を迎え、戦後改革を経て、戦後の高度経済成長に突入しました。この膨大な若年人口こそが、戦後における前代未聞の経済膨張を支えたのです。それに対して他の先進国は、戦前にすでに、中高年人口がぶあつい層をなしている「釣鐘型」の人口構造に達していました。それゆえ、戦後の経済膨張に見合うだけの若年労働力を確保することができず、既婚女性が高い比率で動員されたり、外国人労働者が大量に流入したりして、労働力不足を埋めたのです。
ちなみに、日本は、その後、戦後の医療の発達、福祉の発達、保健衛生設備の普及、そして長期間に渡る平和などのおかげで、急速に先進国型の人口構造に移行し、他の先進国よりも急速に少子高齢化を迎えることになります。
2つ目の理由は、戦後、大量に農村から都市へと若年労働力を中心に人口が移動したことです。その移動のスピードは、欧米では100年か150年かかってようやく実現したような巨大な人口移動でした。そのような大量の人口移動が可能だったのは、戦前の日本が、かなり発達した資本主義国であったにもかかわらず、農村の生産性が著しく低く、野蛮な寄生地主制に支配されていたおかげで、そこに大量の労働力が滞留していたからです。それが、戦後改革によって解き放たれ、都市で勃興した産業に大量に吸収されていったのです。
しかも、日本は基本的に土地が狭く、農地改革で農民が獲得した土地も、平均すれば欧米に比べてはるかに狭いものでした。したがって、農地改革によって農民の勤労意欲と生産性改善の意欲が強まり、実際に生産性が高まると、農家の娘や次男、三男といった若年労働力は、農村で働き口を見つけることができなくなりました。農村で食って行けない彼らは大挙して、都市へと向かったのです。しかも、これらは中卒がほとんどだったので、企業の中では最低の賃金ランクで働きました。
3つめの理由は、戦後に訪れたベビーブームです。先進国ではどこでも、だいたい終戦後にベビーブームが来ていますが、日本の場合、1947~50年における出生率は、他の先進国と比べてもとくに高いものでした。50~60年代半ばの経済成長を戦前生まれの膨大な若年人口が支えたとすれば、60年代半ばから70年代の経済成長は、この団塊世代の若年労働力が支えました。こうして、日本資本主義は、人口構造が第3世界型から先進国型に移行するときに1度だけ味わえる豊富な若年労働力といううまみを、いわば2度続けて味わうことができ、こうして他の先進国に例を見ないような長期的できわめて高度な経済成長を果たしたのです。
しかも、これらの若年労働力の多くは農村出身であり、都会に出て働かないかぎり郷里に帰っても食い扶持はなく、また既存の共同体や伝統的関係からも遊離していました。それゆえ、通俗的な企業社会論(日本は前近代的な集団主義が強いので、企業支配が貫徹したという考え方)とは反対に、伝統的な集団主義から切り離された若年労働力であったがゆえに、彼らは比較的容易に企業の集団主義に巻き込まれたし、また企業の絶えざる技術革新や生産方法の刷新にも順応することができたのです。
インタビュアー 以上のことと、多国籍化の相対的遅れとはどのように関係しているのですか?
H・T 問題はそこです。このような持続的かつ豊富に存在する若年労働力のおかげで、日本企業は、その高度成長を基本的に国内の労働力だけで果たすことができました。しかも、労働供給が豊富なことと年功賃金ゆえに、これらの賃金コストはきわめて低くすみました。そのため、労働力不足をまかなうために、あるいは、高い賃金コストを下げるために、大企業が海外進出に向かうという動因が著しく少なくなっただけでなく、労働力不足を補うために大量に外国人労働者を吸い寄せる必要性もありませんでした。
この点は戦後のドイツと比べても対照的です。ドイツも、日本ほどではないにせよやはり、先進国の中では非常に高い高度成長を果たしましたが、労働力不足は深刻で、その不足を補うためにトルコ人をはじめとする外国人労働者を大量に引き入れました。
ある国の中で大量の外国人労働者ないし移民が社会の底辺階層を構成し、その国の出身者が中上層を形成するというのが、典型的な帝国主義的社会構造だとすれば、日本ではそのような社会構造はきわめて未成熟でした。もちろん、日本には、戦中・戦前の強制連行による在日朝鮮人・韓国人というオールドカマーの問題があり、それはそれで非常に深刻でしたが、日本資本主義は高度成長の中で吸い寄せられるニューカマーの問題をほとんど経験することなく、戦後の数十年間を過ごしました。これは先進国の中できわめて異例なことです。
こうして、日本における独特の労働力人口構造のおかげで、日本企業は、ほとんどの場合、海外進出をしたり外国人労働者を吸収したりすることなく、国内労働者と国内生産中心の経済成長戦略をとり、輸出に精を出すという方式を維持・発展させることができたのです。
インタビュアー しかし日本は、80年代以降もかなりの高い成長率を実現し、基本的に90年代初頭にバブルが崩壊するまで持続的な経済成長を実現していますね。このときの経済膨張を支えたのはどの労働力部門ですか?
H・T それは基本的に既婚女性です。農村人口、団塊世代に続く第3の労働力貯蔵池が既婚女性です。欧米では、すでに60~70年代に、労働力不足を埋めるために大量の既婚女性が経済戦線に進出しますが、日本では、農村や自営業者における既婚女性の労働力化は進んでいましたが、都市の第2次産業(とりわけ大企業)では比較的遅れ、若年の未婚女性中心でした。それが70~80年代を通してしだいに女性の労働力率はM字型になり、結婚ないし出産退職後、一定の育児期間を経て、再び労働力市場に戻るというパターンが形成されます。逆に他の先進国では、この時期にM字型から台形型に移行していっています。
この既婚女性労働力は、資本にとって、若年労働力と共通した利点を有していました。すなわち、低賃金であることと、順応性が強いことです。年功賃金体系というのは基本的に男性労働者の特権であり、女性労働の場合は、年齢とともに賃金はほとんど増大せず、低いままで推移します。しかも、パート労働で雇う場合は、最低賃金に近いレベルで雇うことができ、常勤労働者に付随するさまざまな特典(終身雇用、ボーナス、企業保険・企業年金、退職金、定期昇給、等々)はいっさいありません。このパート労働比率は、80年代半ば以降急速に増大しており、この傾向は今日でもまったく変わっていません。このパート労働者化はもちろん、産業の構造が第2次産業中心からしだいにサービス業などの第3次産業へと変化していったこととも深く関係しています。