インタビュアー ところで、農村から大都市への人口移動というのは、どのくらいの時期まで続いたんですか?
H・T だいたい1970年代半ばまで続きました。
インタビュアー 農村から都市に人口が移動した時期は、だいたい政治的に保守の得票数が減って、革新票が増えていった時期と重なっていますね。
H・T そうです。石川真澄氏は、この点に着目して、1970年代半ば以降に保守が持ちなおしたことと、農村から都市への人口移動がストップした事実とを関連づけて論じています。
この時点で人口移動がストップしたのは、全体として経済が低成長に移行したことや、主要な過剰人口がおおむね都市に出ていってしまったこもありますが、自民党が公共事業などをてこに、地方での仕事の確保に取り組む新しい統合戦略を取り始めたことと関係しています。従来からの自民党の集票機構というのは、農業を中心とした伝統的産業に対する一定の保護や、地縁や血縁を利用したものでしたが、農村から都市へと大量に人口が移動することによって、いわば自民党の基盤がしだいに空洞化していったのです。
そして、都市へと流れていった若年人口は、既存の伝統的紐帯と切り離されているため、その都市での新しい人間集団に急速に溶け込みました。その集団の受け皿が企業である場合には会社人間となったし、その受け皿が革新系の団体(労音や民青など)なら、それを通じて革新系の活動家となりました。どちらにしても、都市に存在する自民党の集票機構には入らなかったのです。
また都市では都市で、民商をはじめとする革新系の自営業者団体が都市における自民党の集票機構に食い込み始めました。
こうした事態に危機感を持った自民党は、政権党としての強みを利用して、それが自由にできる手段(公共事業予算と公的規制)を最大限用いて、新しい統合を模索し始めました。それが、利益政治的統合と呼ばれるものです。
過疎地に馬鹿でかい公民館や学校を建てたり、大きな橋を建てたり、大きな道路を建設したり、といった、現在非常に非難の的になっている公共事業が大盤振る舞いされるようになったのです。この公共事業は、一方では地方に仕事の場を確保することで、都市への人口流出を食い止める効果を持っただけでなく、立派な学校や橋がわが村に建ったのは自民党議員のおかげであるということで、保守支持を強める効果を持ちました。これまでのような、単に地縁や血縁だけでは確保しきれなくなった支持を、目に見える具体的な成果によって改めてしっかりと確保することができるようになったのです。
また、都市部においても、零細自営業者のために、大規模店舗規制法(大店法)によって保護したり、あるいは大小さまざまな公共事業によって無数の土建業者に仕事を確保したりしました。
インタビュアー こうした利益政治的統合というのは、日本の帝国主義化とどのような関係があるんですか?
H・T それは2つの意味で、日本の帝国主義化に対する制約要因として働きました。まず第1に、自民党が70年代に支持基盤として再確保した農村住民や都市自営業者層は国際競争力を基本的に持っていませんので、日本企業の多国籍化による多国籍企業の相互乗り入れや市場開放要求に対して、この階層は、地元出身の自民党議員を通じて、大きな政治的抵抗をすることになります。米の輸入自由化が遅々として進まなかったこと、大企業が望むような規制緩和が90年代になるまでなかなか進まなかったことは、このことと関連しています。
第2に、この階層は、保守的とはいえ平和主義的であり、能動的な帝国主義政策に対してはかなりの政治的反発をするからです。国連平和協力法の過程などで示されたように、この階層の抵抗や反発が地元選出の自民党議員にも反映して、法案に対する消極的な態度として現象してきました。
こうして、自民党は、革新勢力と対抗するために改めて取り込んだ諸階層に逆に制約されて、アメリカ帝国主義や日本の大企業が望むような大胆な帝国主義的改革になかなか足を踏み出せないという状況に陥ったのです。
インタビュアー なるほど。以上、戦後日本のさまざまな特殊性ゆえに、日本の経済発展と帝国主義的復活の過程において、2重のアンバランスないし不均衡が生じたということですね。
H・T そうです。