H・T しかしながら、このようなアンバランスがいつまでも持続するものではありません。やがてアンバランスさを是正しようとする動きが支配層の間から急速に強まってきます。
インタビュアー それはいつごろからでしょうか。
H・T まず、最初のアンバランス、すなわち帝国主義化の諸側面におけるアンバランスを是正しようとする動きは、低成長に移行した1970年代の終わりごろから顕著になってきます。この2つのアンバランスは、相互に深く結びついているとはいえ、相対的に区別された側面も持っています。すなわち、日本企業の海外進出・多国籍化が相対的に遅れていたとしても、日本経済がすでに先進国の中で上位数ヵ国に入るほど膨張したかぎりにおいて、そして日本国民自身がそのような経済大国としての地位に依存するようになったかぎりにおいて、当然、そのような経済的地位にふさわしい政治的・軍事的役割を果たすべきであるという要求が支配層の中で強まります。
そのような動きに拍車をかけたのは、アメリカ帝国主義自身の地位の揺らぎです。戦後、アメリカ帝国主義は、ソ連圏に対抗して西側諸国の経済的繁栄を実現するために、かなりの大盤振る舞いをするとともに、帝国主義的国際秩序維持のための人的・金銭的負担を一手に引き受けてきました。おかげで、日本やドイツなどの資本主義国がアメリカの成長率を上回るスピードで経済成長を遂げるとともに、アメリカ自身は巨額の軍事費の重荷によって、その経済的支配力を著しく弱めました。しかしながら、アメリカの政治力・軍事力はあいかわらず圧倒的でした。つまり、日本の戦後の帝国主義的発展の不均等性と逆の形で、アメリカ帝国主義の不均等な衰退が起きたのです。ここから当然、アメリカが日本に対してその不均等性の是正を求めるという動きが出てきます。
こうして、日本の経済力にふさわしい政治的・軍事的役割を求める要求は1970年代終わりごろに、日米両国の支配層の間で強まります。その顕著な現われが、1978年の有事立法策動であり、同年の日米防衛協力の指針(旧ガイドライン)であり、1980年における環太平洋合同演習(リムパック)への自衛隊の初参加であり、さらには80年代初頭の中曽根による「戦後政治の総決算」路線です。
しかしながら、これらはいずれも当初予定したような十分な成果を挙げることはできませんでした。有事立法策動は、大規模な反対運動によって挫折したし、ガイドラインも、従来の安保の枠組みを拡張したとはいえ、十分に実践的な性格を持たないままに終わったし、中曽根の「戦後政治の総決算」路線も、軍事費の1%枠突破などを実現したとはいえ、これまた厳しい世論の反発を招いて中途挫折しました。
結局これらの策動が失敗するか中途挫折したのは、前回のインタビューで述べたように、国民意識の帝国主義化がまだ非常に弱かったからであり、同時に、これらの帝国主義的改革が基本的に既存の政治的統治構造を前提にしたまま進められたからです。つまり、中選挙区制を前提にした自民党の利益政治的統合や国民主義的な多数派戦略(この点については「不破政権論」下を参照)と強力な社会党の存在が、軍事的帝国主義化の上で最大のネックとなったのです。したがって、軍事的帝国主義化を実現するには、それに先立って新しい帝国主義的な国内統治体制を作り出しておかなければならなかったのです。90年代の帝国主義的改革が何よりも「政治改革」(=小選挙区制の導入による、旧来の統治構造の打破と社会党の解体)として遂行されたのは、まさにここに理由があります。
インタビュアー では、第2のアンバランスの方についてはどうですか?
H・T こちらの方の是正が進むのは、第1のアンバランスの場合よりも10年ばかり遅れて、80年代後半です。70年代半ば以降、世界資本主義はおしなべて低成長過程に移行し、長期の不況と高い失業率と先進国病に苦しみますが、日本はその独特の企業社会的構造ゆえに、不況から早々に脱出し、先進国病を経験しないまま、再びかなり高い成長率を実現しはじめます。それが、70年代終わりから80年代半ばにかけて、当時の円安基調にも促されて、いわゆる集中豪雨的な輸出となって現象し、他の西側先進国からの厳しい批判を受けるようになります。
日本の独特な労働者統合のあり方は、一方ではジャパン・アズ・ナンバーワンとして称賛を浴びるとともに、他方では不公正な競争要因として指弾を受けます。こうして、1985年のプラザ合意による円高政策と、日本の全般的好景気、日本の低金利政策とアメリカの高金利政策(これによって、アメリカの巨額の財政赤字を日本の潤沢な貨幣資本が支えました)などがあいまって、80年代後半に日本の海外直接投資が一気に膨れ上がります。それは、アメリカの国債や不動産を購入するという形での貨幣資本の輸出とともに、日本企業が欧米で実際に生産を開始するという生産資本の輸出=多国籍企業化も進みました。
この海外直接投資の拡大と日本企業の多国籍化の過程は、90~91年のバブル崩壊によって一時的に停滞ないし後退しますが、その後94~95年から再び、アジア地域を中心に大規模に進みます。この後者の多国籍化は、85~90年の多国籍化とはいくつか異なる特徴を持っていますが、その点は後で述べます。
こうして、単に日本資本主義が経済的に膨張しただけでなく、その国際化の形態が高度化したことによって、政治的・軍事的帝国主義化への衝動は70年代終わりとは比べものにならないほど強まります。それと同時に、前回のインタビューで述べたように、この時期に、国民意識の帝国主義化も急速に進展します。こうして、93年政変を画期として政治的・軍事的帝国主義化の動きが一気に加速するのです。